Hello,my fair lady.

01 : I'm fine thank you.


今日も現れた、すらりとした長身の男の子。

あたしの愛車に何か用なんだろうか。聞いてみたいのだけど、すごく聞いてみたいのだけど、なんとなく聞けずにもう1ヵ月が経とうとしていた。その「彼」はいつもあたしの愛車の周りをぐるりぐるりと回りじっとりとまるで獲物を定める肉食獣のような瞳で見つめている。正直、いたたまれないのだが。

けれど今日こそはと思い、あたしは休憩時間をうまいことずらして「彼」に話しかけることにした。ずんずんと近づいていくと、遠目から見てもかなり格好いいと思っていた彼が、近くから見ても全く引けを取らないくらいに端整な顔立ちをしていることに気付く。
制服を着ていることから近くの高校の生徒だということは分かっていて、ついでに言うとこの時間にうろうろしてるくらいだからサボリ魔もしくは受験を控えた生徒だということも分かっている。サボリ魔というともう少し柄の悪い雰囲気を漂わせているだろうから恐らくは後者だろう。あの学校に通ってるんだから相当秀才のはずだ。と、あたしは一言も言葉を交わしたことのない、けれど毎日顔を見ている「彼」について様々な考察をしていた。

「こんにちは」
「こんにちは」
「怪しい人じゃないのよ、あたしはこの子のドライバー。君、いつもここで車見てるでしょう?」

こんにちはと言ってこんにちはと返ってきたことが意外だった。この間季節外れにやってきた新入社員なんて廊下ですれ違っても挨拶のできない奴だったから、まさかまだ高校生の彼が見ず知らずのかなり怪しいあたしに挨拶されて戸惑わないはずはないとあたしの脳内シミュレーションを踏まえてそう思っていたのだ。礼儀正しい子なんだな。育ちのよさそうな顔、してるし。

「やっぱり、覚えられてたんですね」
「そりゃ毎日のように吟味されちゃ、ね。車が好きなの?」
「はい。このZ32、かなりチューニングしてるみたいだったし、色も市販車と違うから」
「お、分かってんじゃない」
「Sタイヤとのバランスもいいです。あと車高の落としもギリギリのラインだし」
「…本当に高校生?」

車マニア、という文字があたしの頭を横切った。

「車が好きなんです」
「ふーん…まァ、男の子なら珍しくもないかなァ」
「お名前、何て言うんですか?」
「あたし?」

、と言うと、俺は高橋涼介です。と爽やかな笑顔で言い放った。なんか眩しすぎて後光が差してるように感じるわ。

さん。これからも見に来ていいですか?Z32」
「いーよ。いつでもおいで。高橋くんみたいなカッコイイ子なら、お姉さん大歓迎だから」

半ば冗談抜きでそう言うと、高橋くんはまた来ますと言って去って行った。マフラーが風にたゆたうのを見送ってあたしは仕事に戻った。











02 : And you?


それからというもの、あたしは自然と高橋くんが来る時間に休憩を挟むようにして、彼と話すようになった。平日学校がある日は彼は必ず決まった時間にあたしの会社の前を通るのだと知り、彼はやはり受験を控えた高校3年生なのだということを知った。
若い男の子と接する機会はそれなりにあるとしてもそれは「上司」と「部下」という間柄だけであり、こうして高校生の男の子と接触する機会のないあたしにとって彼は新鮮な存在だった。同時に彼も、あたしのように年上で働いている女の人の知り合いというと先生くらいしかいないからあたしのことを新鮮だと言っていた。自惚れかもしれないけれど、あたしと高橋くんはすぐに仲良くなった。
2人して車が好きなのだから、話が尽きることはない。高橋くんの知識は高校生とは思えないくらい幅広く正確で、この子は一体何を目指してるんだろうと不思議に思うばかりである。ある日、あたしはその疑問を素直にぶつけることに成功した。

「高橋くんは、将来車関係の仕事に就きたいの?それともレーサーになるとか?」
「いえ、俺は長男だから家を継ぐって決めてるんです」
「アラ意外」
さんだって車関係の仕事じゃないのに詳しいじゃないですか」
「あたしは自分じゃなくて友達の影響よ。走り屋のね」
さんは、峠に行ったりするんですか?」
「えー、危ないじゃん。あたしは別に走り屋じゃないし」

嘘を吐いた。本当は今でも峠に行きたいし、走り屋としてこの車でコーナーを攻めれば快感を感じるだろうと思う。けれど今はもう、そうやって走ることは終りにしたんだ。











03 : Um,I feel a bit sick.


その翌日から、ぴたりと、高橋くんは姿を見せなくなった。いつもの時間に休憩を取って外に出てみても彼の姿はない。あれだけの整った顔と長身だ、いくら仕事に集中していても視界に入ればすぐ分かるはずなのに。

「まァ、受験生だしなァ。そろそろ正念場ってことかしら」

独り言を呟いて、すっかり暗くなってしまった空を見て、そして溜息を吐いた。こんな時間まで残業するつもりはなかったのになァ。
生温くなったコーヒーを飲み干し、あたしは職場の入口から車までの僅かな距離のためにコートを羽織りティペットを巻いた。家に帰って温かいものでも食べよう。そう思って外に出ると、あたしのZの横に誰かいることに気付く。いや、誰か、じゃない。

「こんばんは、高橋くん。今日はずいぶんと遅いのね」
さんこそ。残業、お疲れ様です」
「ありがとう。久しぶりだしゆっくりお話したいとこなんだけど、アナタは受験生なんだから早く家に帰りなさいな」
「…今日は、お願いがあって来たんです」

お願いとは一体何だろう。こんな時間に高橋くんに会うのは初めてで、そのせいか彼がいつもとは違う人に見えた。成長期の名残で少し丈の足りてない袖から覗く手首は寒さで赤い。それなのにあたしを真っ直ぐ見据える、いや、射止めるような瞳はえらく熱っぽかった。

「俺を、ナビシートに乗せてください」



別にいいよと言ったらすごく拍子抜けしたような顔をされた。何をそんなに断られるなんて思ってたんだろう。ナビシートに乗った高橋くんを家まで送ることに決め、あたしはアクセルを踏み込んだ。

「高橋くんって、頭いーんでしょ。そこの学校偏差値高いって聞いたんだ」
「それなりには」
「大学は?どこ受けんの?」
「郡大の医学部です」
「へ~医学部ねェ…ホントに頭いーんだねェ」
さんはどこの大学を?」
「あー。あたし高卒なんだ。だから高橋くんくらいの時にはもう就職決まってて、免許とか取りに行ってたかなァ」

自分で言っておいてなんだかとてもずいぶん、昔の話のような気がした。

「この辺なの?家」
「はい、ありがとうございました」
「いーわよ。じゃ、勉強はほどほどにね」
「これ」

高橋くんの家の前まで送るのはさすがに気が引けたので(お医者さんの家というのはどうも厳しい印象があったから、あたしみたいな女が車で送りなんかしたら親に怒られるんじゃないかという脳内シミュレーションによる)、手前の交差点で高橋くんを降ろした。降ろして、挨拶をして、家に向かうかと思ったら何やらメモ用紙を渡される。どう見ても高橋くんの連絡先だ。

「よかったら連絡ください。それじゃ」

角を曲がるまでそこに車を停めたまま見送った。こちらを振り返ることなくまっすぐ歩いていく彼は、一体どういうつもりなんだろう。高橋くんのことは嫌いじゃないんだけど、お姉さんはこういうのちょっとばかし面倒臭いなァ。周りに車好きの女の子とかいなくて珍しかったんだろう。それに加えてこの年齢差で、友達には話せないこともちょっと話せるななんて思われたんだろう。きっとそうだ。そうに決まってる。だからそういうのはちょっとばかし面倒臭いはずなのに。

「なーにを浮かれてんのよ、あたしは」

それでも邪見にできないのは、やっぱりどこか彼に引っかかるところがあるからなんだと自覚していた。











04 : What’s wrong with you?


「身体に悪いですよ、タバコ」
「なに、未来のお医者さんの忠告?」
「事実です」
「あたしが肺ガンになったら高橋くんが儲かるんだからいーじゃない」
「俺はタバコの吸い過ぎで肺ガンになった人なんて診ません」
「うわっこの野郎!」
「痛っ!それにっ、タバコは周囲の人の方が害が大きいんです。俺が肺ガンにでもなったらさん訴えられますよ」
「あたしが好きでお金出して身体に悪いことしてるんだから止めてくれるな」

大変だ、高橋くんが最近生意気だ。あたしの生活習慣の荒れを知り、やれ栄養がどうだ、やれタバコは体に悪いだとこの年になったらお母さんでも言わなさそうな台詞をごまんと聞かせてくれるので、あたしは困っていた。

「成人してるんだし、法に触れるってこともないわよ」
「どうせ成人する前から吸ってたんでしょう?」
「さーどうでしょうねー」

そんなものは時効だ。第一なんでそれを知ってるんだこの子は。

高橋くんはあれ以来、あたしのナビシートに乗りたいと言い出すことはなかった。あたしも一定の距離を保っておきたかったので、彼が夜遅くに訪ねて来ても(週に何度も残業してることがばれたようで、時々夜遅くにも彼が出没するようになったのだ)家まで送ろうかなんて言わなかった。これでいいんだ、これで。

この子は時々、とても諦めたような瞳をする。いつもは怖いくらいに鋭い眼光が、そのときばかりは一瞬燃え尽きたように鈍くなる。どうしてかは分からなかったけど、この年の子は多感だから、そういうことがあっても不思議じゃないのかもしれない。
けれど生憎この年の男の子と接する機会のないあたしにとって、それは凶器以外の何物でもなかった。理由の分からない冷めた瞳はえもいわれぬ感覚を呼び起こさせる。トラウマのような、デジャヴのような、体感したことがありそうで経験したことがなさそうな。

「そんなことはどうでもいいでしょう。別の話にして、別の」
「じゃあ、」

「走り屋をやめたのは、どうしてだったんですか」

ああ、その目だ。今一瞬どうしてそんなに諦めた目をしたの。聞いてみてもよかったけど、多分本人はそんな目をしてることを自覚していないのだろう。











05 : I had heartache when I think of you.


走るのが好きだった。峠を攻めるのが好きだった。誰よりも速く下れると思っていたし、周りもそれを認めていた。けれど、あたしは走るのを止めた。どうしてかは、誰にも言いたくない。

高橋くんのことを思いっきり引っ叩いてから、約1ヵ月。

案の定彼はあたしに会いに来なくなり、あたしも彼からもらった連絡先を、とうとう使うことがなくなるんだなと実感した。元々使うつもりはなかったのだけれど、本当に必要がなくなる日がこんなにも早く来るなんて思ってもみなかった。聞かれたくないことをピンポイントで聞かれて八つ当たりで手を上げるなんて感情的にも程がある。それでも、どうしても彼が踏み込んでくるのを許せなかった。いい子だったのになァ、勿体ないことしたかしら。あと数年経ってから知り合ってたらこの結末は変わったのかしら。
どうにもならないことを考えても仕方ない。目の前の仕事に意識を切り替えよう。そう思ってあたしは手つかずの企画書に目を通し始めた。一度集中し始めれば時間が過ぎるのは早くて、あっというまに日が暮れた。

「ん…ロータリーエンジンの音だ。珍しいなァ、この辺じゃ滅多に見ないのに」

今日も今日とて残業を済ませ、そろそろ家路に着こうという時間。懐かしいロータリーエンジンの音が近づいてくるのが聞こえてあたしはどんな車だろうと思い駐車場に出て、もしかしたらここを通るかもという期待に胸を膨らませていた。
その車は本当に目の前に現れた。そうして、現れなければよかったのに、と心から思った。

「高橋くんの、なんだ。このFC」
「はい。まだ新しいですよ」
「…怒ってないんだもんなァ」

真白なFCは月明かりの下でもその色を褪せることなく維持していて、むしろそれ自体が発光してるんじゃないかってくらいに眩しかった。少し、高橋くんに似てると思った。
窓を開けて話しかけてきた高橋くんの表情は穏やかで、それでいて何かを決心した後のような清々しさと強さがあって、引っ叩いたことに今更すごい罪悪感が芽生えた。こんな男前を引っ叩く機会なんてあたしが死ぬまできっとない経験だろう。別に、経験しなくてもよかったんだと思うけど。

さんには何か、理由があったんだと思って。俺があれで怒るのは違うと思ったんです」
「で、なんでFC?」
「ナビに乗ってもらえませんか?」

一緒に行きたいところがあるんです、と言う彼の瞳に囚われて、あたしは迷うことなくナビシートに乗り込んだ。












06 : Oh,you have 'Love Sickness'.


行先はすぐに分かった。何度も通ったことのある道だったから、彼がどこに連れていこうとしているのかあたしには手に取るように、ごく自然に。それでも嫌な気分になるというよりは彼が一体そこで何をするつもりなのか懸念していた。
予想は的中したというか、彼は赤城の峠を全開で下った。上りもある程度飛ばしてはいたけれど、下りが恐らく今の彼の本気の走りだろう。多少のミスはあるし荒っぽさが目立たないわけではないけど、真摯な走りだった。いくら未熟さが伝わって来ようと、速さを極めたあたしにとっても気持ちのいい走りだった。麓に着いてFCを停めると、しばらくして彼の左手がふるふると小刻みに震えているのに気付く。隣に人を乗せての全開走行というのは慣れてない走り屋にとってはものすごく緊張を煽るのだ。あたしがその震えの止まらない左手を見ているのに気付くと、彼は苦笑を見せた。

さんがすごい走り屋だったって、知ってました。すみません」
「どこでそれを?」
「2年前…さんの走りを見に行きましたから」

まだあたしが現役で走っていた頃、高橋くんはギャラリーとして峠に来ていたらしい。その時に走っていたのがどうやらあたしで、あのZを見たときに間違いないと確信したそうだ。

さんともう1台、他の走り屋とは明らかに違う走りをしてる車がいましたよね」
「…Zと同じ色の、FCでしょう」
「そうです。走り屋の知り合いに聞いたら、ZとFCは同時期に峠から姿を消した、と」

どうして同時期に姿を消したのか。その詳細は誰にも語られていないので、恐らく高橋くんもそこまでの事情は知らないだろう。あたしはともかく、そのFCのドライバーを峠で見ることは2度とない。もう2度と、見ることはできないのだ。それがあたしのせいなのかどうかはともかく、あのZを手放さないのは一種の弔いなのかもしれない。峠で走れなくなったドライバーへの、せめてもの償い。

さんが走らないのは、何か原因があるんだってわかりました。だから走って欲しいとは言いません」
「そうね、走らないって決めたから」

走って欲しいなんて言われたら、それこそあたしは高橋くんと永遠に縁を切らなければいけなかったと思う。これまでだってあたしが走るように仕向けるようなものを全て取り払ってきたのだから。

「だから、俺のコーチをしてほしい」

コーチって、どういうこと?そう問いかけると、高橋くんが挑戦的な瞳で、あたしの瞳孔まで捉えんとする瞳で、瞬きの音が聞こえてしまうんじゃないかというくらいじっくりと。見つめられていた数秒で、あたしの心はこれでもかというくらいに揺さぶられた。言葉なんて交わしてないのに、その挑発に乗ってもいいと思うのに時間は必要ないものとされた。

「俺は公道最速の伝説を残す。そのスタートをサポートするのは、ずっと憧れだった牡丹しかいないんだ」

敬語の抜けた彼の本音に、ああ、脆くも崩れ去っていく。今まで考えていた色々な言い訳なんて大した壁にならなかった。こんなに大きくて楽しそうな賭けに乗らない手がこの世にあるというの?
どうしてかなんて分からなかったけれど彼の挑戦的な瞳から目を離せなくて、そのまま唇が重なった。舌先に少しだけ鉄の味がしたのは、彼が全開走行中に噛み締めていた唇の血の味だったのだろうか。











How should I do to feel well?

It would be good to tell her 'I love you'.

O.K. I love you.

What?



So I love you. I love you.






End.