002/誓言

「カナタ、少しついてきてくれぬか」
「どちらへ?」
「書斎だ。見せたいものがある」

王都へ戻ってからナルサスはまず自分の書斎を整えたという。山奥の隠れ家に置いていた本を運び込み、かつてカナタがそこで様々なことを学んだその書斎のつくりそのままをあつらえた。初めて入ったときからどこか懐かしい気持ちのするその空間を、カナタもやはり気に入っていた。
ナルサスは棚から何やら装飾の施された細長い箱を取り出すと、更にその中から一つの巻物を取り出す。それは顔もほとんど見たことのない父親から譲り受けた、ダイラム領主の家系図であった。

「立派な家系図ですね」
「ああ。過去の俺はこれに何か興味を抱いたこともなかったが、山奥に隠遁するときにも捨てずに置いておいたのを思い出してな」
「改めてですけど、ナルサスさまは本当に由緒正しい貴族様なんですね」
「どういう感心の仕方だ、それは」

確かに過去の自分はこれに興味など雀の涙ほども抱かなかった、とナルサスは頭の中で静かに反芻する。しかしアルスラーン陛下が王になり、理想とする国を作り上げていくこれから、彼自身も未来を変えていきたいと思う気持ちになりつつあった。それは今目の前で物珍しげに家系図を眺めているカナタに、散々彼女の決意や未来を語らせたせいなのかもしれない、と密かに感じる。

「ナルサスさまのお父上は、テオスさまと仰るんでしたよね」
「そうだ。昔に話しただろう、三国同盟が発足する直前、階段から転落して亡くなった」
「聞いた覚えはあります。お会いしたことは?」
「ほとんどないな。俺の母親は、父が気まぐれに手を出した自由民の女に過ぎなかった」
「ではナルサスさまはお父上似ですか?それともお母様似?」
「今日はやけに探りたてるではないか」

妙に興味を持って質問を投げかけるカナタを見て、ナルサスはふわりと微笑んだ。自分に興味を持ってもらえるのは嬉しいが、まさか両親のどちらに似ているかなどと尋ねられるとは思わなかったのである。

「申し訳ありません、私の中では、世間話のような位置づけなのですが…不快にさせてしまいましたか?」
「いや、そうではない。父の姿は記憶には曖昧だが、ダイラム領主だった頃はよく目元が似ているとか、話し方がそっくりだとか言われたな」

それも前領主と自分とを何とか繋げたい民の気持ちの表れだったかもしれぬがな、と付け加える。詰まるところ、どちらに似ているかというのはナルサスにとって真実の分からぬことであった。

「…私、この世界に来た時、両親が恋しくて悲しいことがよくありました。けど今は、もう彼らの顔もぼんやりとしか思い出せません。時間というのは偉大です」
「よくそれで泣いては、エラムを慌てさせていたな」
「悪いことをしたなあと思っています。エラムはもう、泣いている女の子の慰め方は習得したのでしょうか」
「あれも殿下と同じで、まだ馬に乗って狩りをしたり、学びを深めているときの方が楽しいようだ。しかし、もしかするといつか、そういう話も聞けるやもしれんな」
「ナルサスさま、どうしましょう。エラムに好い人が出来たら、受け止めきれるかどうか分かりませぬ」
「なんと、お互い様ではないか」

エラムとてカナタのことを長年の姉弟子として、そして本当の姉のように慕っている。そんな彼女に好いた男ができたと聞けば、黙って祝うようなことはなさそうだとナルサスは思っていた。もしかすると綿密に男の素性を調べ上げて、小姑のようにダメ出しをしては、裏工作をして破局させるかもしれぬと悪戯げにナルサスがカナタに言ってみる。しかしカナタはけろりとして答えた。

「ではナルサスさまは、いつかエラムに素性を調べ上げられ、小姑のようにダメ出しをされ、裏工作をされた挙句に私のことを諦めるおつもりなのですか?」

確かにエラムであればナルサスさまにも遠慮なくダメ出しをしそうだとカナタは言う。掃除もできない、料理もできない、画材の調達だって任せきりで、朝も何度も起こさないと起きないし、意外と寝汚くて、と怒涛の勢いで続けられ、ナルサスは降参を示すように両手を上げて苦笑いを浮かべた。エラムの口真似をしてみせるカナタが妙にその特徴を得ていたので、後日こっそりとエラムをからかってやろうと頭の片隅に置いておく。

そうして両手を下ろすふりをして、ナルサスは隣りにいたカナタの体をふわりと抱きしめる。突然のことに驚きを隠せない様子の彼女であったが、そこに拘束の意思もからかいの気配もないのが分かると、控えめにナルサスの腰に手を回した。愛おしむように体を包まれるその感覚が続き、しばらく経ったところでナルサスが口を開く。

「今まで自分の家系にとらわれるなど、想像したこともなかった。しかしカナタ…お前に出会い、師として情愛を抱き、俺の弟子でなくなった後も真っ直ぐと自分の未来を見据えるお前に、惹かれていく一方だった。今更お前を諦めるなど、無理な話だ」
「ナルサスさま…」

密着していた体を少しばかり離し、互いの瞳が見えるようになるとナルサスは間を空けずに言った。

「愛している、カナタ。俺にお前を選ばせてほしい。そして、お前も俺のことを、どうかもう一度選んでくれぬか」

ギランで想いを伝えてくれた、あのときのように。とナルサスは付け加える。突然の告白ではあったが、カナタ何よりその言葉をあの夜から待ち続けていたのである。こくんと頷き、嬉しさを実感する前に反射的に目尻から一筋涙を流した。

「あの夜から…陛下が御即位され、そして今日まで。ナルサスさまのことを一時も想わなかったことなどありません。貴方の弟子となったあの日から変わらず、尊敬し、敬愛を抱き、そして何より想いをお伝えしてからは、隣で共に歩んでいけたらどんなに幸せかと思っておりました」

幸せに震える声でそう言うカナタの髪をナルサスは優しく撫でる。そうして、ここに、とナルサスは家系図の自分の名前の横を指差した。

「カナタ、おぬしの名前を書き加えてくれぬか」

それがどういうことを意味するか、カナタには当然理解できた。しかし一度堰を切った涙はとどまるところを知らず、ただひたすらに彼女の頬を濡らしている。彼女の中の嬉しいという気持ちが溢れているように思えて、ナルサスはその涙に優しく唇を寄せた。

「それは…ナルサスさまの家族になるということでしょうか」
「そうだ。俺の一生の伴侶になってくれ」
「後にも先にも、妻は私だけですか?」

カナタはこんなときにも、ナルサスの父にあたるテオスが何人もの女性と関係を持っていたことを気にしているようであった。相変わらずな貞操観念の強さを垣間見て、ナルサスはしかしそれすらも愛おしく思えて彼女の髪を再び撫でる。そうして小さく笑って答えてやるのだった。

「お前以外になど、いらぬよ」

そうして潤んだ瞳を見つめると、頬に手を添え、彼女の鼻先に自分の鼻先をほんの少し触れさせた。カナタは驚きはしたが、抵抗する様子はなく、瞳を閉じてナルサスの口付けを受け入れた。唇を数秒の間優しく触れ合わせるだけのキスは、まるで誓いの儀式のように思われた。