004/動揺

結局、アルスラーンが何か言う前に、カナタは自ら辞退すると言い放ち、その場を去った。カナタの去った後、残された場で六人の視線がナルサスを襲う。じっくりと黙り込んで浴びせられるそれを潔く受け止めたナルサスではあったが、どちらかと言えば周囲の痛い視線よりも、自分のしたことの愚かさに打ちのめされそうになっていた。

「おいナルサス、一応にも殿下の御前だぞ。それに少しはカナタの気持ちも考えてやれ」
「ダリューン、いいのだ。ナルサスがあんな風に言うとは、余程の理由があったに違いない」

この時ばかりはアルスラーンの気遣いが、かえって追い打ちをかけたようにも見えた。しかしそんなことで同情を買えるほど、ナルサスの置かれた状況は楽なものではない。

「軍師殿は、いつまでカナタをご自分の所有物としてお取り扱いになるつもりかな」
「…俺はカナタを自分のものだとは思っておらぬ」
「では先程の命令は?上から下に、有無を言わせぬだけの命令なぞ、ナルサス卿ご本人がこの世で一番に気に入らぬものだと思っておったが」
「ギーヴも、やめないか」
「王太子殿下の御前で非礼とは存じ上げますが、私からも一言申さねばなりませぬ」

ファランギースはアルスラーン殿下に一礼すると、ナルサスの瞳をじっと見据えた。

「あの娘は、ギーヴが言う通りもうナルサス卿の所有物ではない。可憐な姿を他の男の前に晒してほしくないと欲を見せるのであれば、それ相応の誠意と言葉が必要なことくらい、聡い軍師殿には分かっておられるじゃろう。いつまでも誠意を見せぬとあらば、カナタがこの先誰のものになろうと文句は言えぬぞ」

女神官の口から発せられた厳しく鋭い指摘に、ナルサスは両手を挙げて降参の意思を示した。

一方、勢い良く宿屋を飛び出したカナタは、歩きなれない靴でギランの街をさまよっていた。彼女にしてみれば、あのようにナルサスに言わせたこと自体が、自分が意地を張ってしまった結果として招かれたと思うと心に晴れないものがあった。
夕暮れ時になり、野菜や果物などを売る商店がそろそろ店仕舞いをしようという時間帯である。ギランの街の建物はオレンジ色の光に照らされ、どこか懐かしい気持ちにさせる雰囲気を纏っていた。

ふいに、彼女は一本の路地に人影が動くのを認めて足を止める。そこには微かに見覚えのある、昼間の船に乗っていた海賊の残党の姿があった。男二人、何やら壁際にいるもう一人の男と話しているようだが、二人の声だけが何かを怒鳴り散らしているのが分かる。もう一人の男は、潮に焼けた肌の色をした、貴公子さながらの見た目をしている商人のようだった。カナタは迷わず路地に入る。

「貴方達、その人から離れなさい」
「なんだこの女、いきなり入ってきやがって」
「そんな格好でうろついて、今晩の客でも探してるってか?」
「耳も悪ければ頭も悪いとは、救いようのない奴らめ。昼間のことをもう忘れたというのですか」
「昼間だと…何を言って、お前、もしかしてあの時の―――!」

カナタが口元を隠していたヴェールを取り去ると、二人の男はその正体に気付いたようだった。逃げ出そうとする男の腕を取り、その場で背負うようにして地面に投げつけた。しかし、もう一人の海賊も逃すものかと視線を向けた瞬間に、背後で苦しそうに呻く声が聴こえる。海賊二人に襲われていた男の声だと気付きカナタが振り向くと、その隙をついて男たちは一目散に逃げ出した。

「大丈夫でしたか、どこかお怪我を?」
「すまない、私のせいであいつらを逃してしまったな。怪我はないのだが、少し驚いてしまって…」
「いいんです、無事でよかった。貴方はギランの街の方でしょうか」
「私はシャガード、この街で商いをしております。よろしければ助けていただいたお礼をさせてください、絹の国の可憐なご婦人よ」
「可憐なご婦人…」

カナタは自分がそう言われたことに驚き半分、嬉しさ半分だった。シャガードは放心する彼女を見て、それを言われ慣れていない初心な反応と受け取ったのか、恭しく一礼して「お手をどうぞ」といかにも紳士的な態度を取ってみせる。

「いえ、私は、その」
「私と一緒に来てくだされば、ギランの街のどんなところでもご案内して差し上げましょう。決して退屈はさせません」

どんなところでも、と聞いてカナタの気持ちは傾いた。地図だけでは分かりきらないところを案内してもらえるかもしれない。それにこの街で商人をしている者から話を聞けば、何か海賊に関する情報や、彼らと戦うために有益な知識を手に入れられるかもしれない。情報収集の好機と受け取り、カナタは出来る限りの笑顔でシャガードの手を取った。

シャガードに案内してもらう街は、確かに退屈しなかった。日が沈んでも港から様々運び込まれるものについて、カナタはそれがどこの国から来ているのか、どんな風に運ばれるのか、一年のうちのいつピークを迎えて、いつが売れ時かなど、とにかくシャガードに質問を続けた。シャガードも最初こそその様子に驚いていたが、途中から楽しくなってきたのか反対に情報を小出しにして彼女に推測させてみたり謎掛けのようにしては、ギランの街の仕組みについても語ったりした。

「そなたは誠に賢い女性だな。もしかして絹の国の商人なのではないか?かの国は、女性でも剣を振るったり、政事を学んだりするというではないか」
「ありがとうございます。私は絹の国の出ですが、今はパルスを旅している身です」
「そうか…ギランにはいつまでいるのだ?ぜひ、俺の屋敷に招待させてくれぬだろうか」
「ぜひそうしたいのですが、生憎連れもおりますので…そろそろ宿に戻らねばなりません」
「では宿まで送らせてもらおう。いくら貴女が勇敢だとはいえ、夜道は危険だ」

そろそろ総督府から皆が戻っているかもしれないと思い、カナタはシャガードという男に送られて宿に戻った。アルスラーンたちはちょうどひとしきりの事を終えて宿に戻ってきているようで、外からも部屋に灯りがついているのが見えた。カナタは急いで戻らなければ、とシャガードに急いで礼を言い、その場を去ろうとする。

「お待ちください」

走って去ろうとしたカナタを、シャガードは引き止めた。そうして目の前に跪くと、ゆっくりとカナタの左手を取ってその甲に唇を寄せた。突然のことに、カナタは驚きを隠せないでいる。

「今宵は久々に楽しい夜だった。貴女のような可愛らしく聡明な女性に会えたのは初めてです」

改まった態度で伝えられたシャガードの言葉は真っ直ぐにカナタに届けられた。決してからかうわけではなく、どちらかと言えば急ぎ足で放たれたその言葉に、彼女は何か胸に響くものを感じていた。そして窓から見守るナルサスの視線に気付きもしないまま、その場に立ち尽くししばし余韻に浸ったのであった。