002/公正

「さっきは助かった。港についたら、ぜひとも礼をさせてくれ」
「間に合ってよかった、積み荷は無事だろうか」
「ああ、あんたたちのお陰でな」

ダリューンと拳を握り合ってその顔に笑みを浮かべる男は、グラーゼという商船主だった。彼も彼の仲間も、船の危機を救ってくれた五人に感謝の意を示し、興奮気味に船を港へと進めた。

「まさか噂に名高い万騎長ダリューン殿がこの街に来ていたとは。それに、そこのお嬢ちゃんも見かけによらず大した腕前だな」
「カナタと申します、グラーゼ殿。ダリューンさまに比べれば若輩者ですが、海賊に負けるほど弱い剣は持ち合わせておりません」
「ははは!こりゃあいい。俺も俺の船のやつらも、見習って精進しねぇとな」
「あの海賊たちは、よく出るのか」

ダリューンが尋ねると、グラーゼ自身は襲われるのは初めてだったが、港に出入りする商船を襲う海賊がいるということは何度も報告を受けているという。

「あの総督、口から出まかせばかりかと思いきや、案外デタラメでもないということか」

ギーヴの言葉に、一同はそれぞれ思うところがあるのか考え込む様子を見せた。グラーゼはそんなこととはつゆ知らず、絹の国から持ち帰った酒を助けてもらった礼に振る舞いたいと申し出た。

港に船が着くと、その無事を祝う人とそれを救った五人を讃える人とで港は至極賑やかであった。船から降りてくる五人のところへすぐさまアルスラーンが駆けつけ、嬉しそうな顔でご苦労だったと伝える。そうしてダリューンがアルスラーン王太子殿下、とその名を紹介したところで、港にはグラーゼ含め大勢の驚きおののく声が響き渡った。

辿り着いた街の酒場で、グラーゼと乗組員たち、そしてアルスラーン一行は昼間だというのに酒坏を交わしている。船員たちが大いに盛り上がる中、店の一画のテーブルを囲んだアルスラーンとグラーゼ、そしてナルサスとカナタは、今のパルス国内の様子と自分たちの置かれている状況について話を進めた。

「なるほどな、アンドラゴラス国王陛下が生還なされたのは確かに吉報だが、五万の兵を集めろとは、なかなか無茶を言うものだ」
「この街に駐留している軍を動かすことに関しては、ペラギウス総督に正式に要請する。おぬしたち商人に頼みたいのは、その傭兵にかかる資金の調達だ」
「ふむ、確かに五万の兵を養うには、相応の金がいるだろうが…」
「無茶な頼みとは理解している。しかし私は、必ず父上のご期待に応え、五万の兵とともにペシャワールに戻らねばならぬのだ」

アルスラーンが頭を下げると、グラーゼはその顔に困ったような笑みを浮かべた。

「おっと、そういうのは止してください、殿下。あんたがたは、俺と船にとって恩人だ。ないはずの命を拾ってもらったんだから、礼はさせてもらいます」
「ではグラーゼ殿、協力していただけるのですか?」
「ええ、他の商人たちにも声をかけましょう。このグラーゼが、あんたがたの金づるになりますよ」
「金づるなどと、そんな…!」
「気にすることはありませんよ。お前ら、いいな!」

グラーゼのその一声に、酒場にいた男たちは一斉に賛同の声を挙げた。

「ところでナルサスさま、ペラギウス総督の件なのですが、そろそろ手を打ってもよろしいでしょうか」
「ああ、俺もちょうど考えていたところだ。ここは奇策といこうではないか」
「カナタもナルサスも、何か考えがあるのか?」

口の端を吊り上げて満足気に笑う二人を見て、アルスラーンは奇策という言葉に内心胸を踊らせながら、宿に戻って二人の話を聞くことにした。しかしそれこそが、二人の間に亀裂を走らせることになるとは、その場の誰もが想像しなかったに違いない。

宿に戻ると、アルスラーンとナルサス、そしてカナタは一部屋に集まった。
そうして三人が部屋に入ってしばらく経ったとき、その部屋から突如アルスラーンの叫び声が上がる。

「エラム、助けてくれ!」
「何事ですか!殿下!」

隣の部屋にいたエラムは、殿下の悲鳴が聞こえると慌てて駆け出し、すかさず扉を開ける。だがそこに見えた部屋の様子には何の変哲もなかった。アルスラーンは確かにエラムの姿に安心しているようだったが、それ以外にどこか変わった様子はない。そもそもカナタとナルサスがそこにいるのに、何か殿下に危険が及ぶなどとは思えなかった。怒声が沈黙を破るまでは。

「だから!ファランギース殿に任せておけばよいのだ!」
「いいえナルサスさま。今回はどう考えても私が適任です!」

エラムは久々に見たその光景に『犬も食わない師弟喧嘩』という言葉を思い浮かべたが、そう言えば今はもう師弟ではないので、これは最早ただの痴話喧嘩になるのだなと大きく溜息をついた。

「…そういうことでしたか」
「すまないエラム…こうなってしまっては、止められるのはおぬししかおらぬ」
「お二人とも、殿下を困らせないでください!一体何があったんですか」

二人に冷静になるよう釘を刺し、エラムは中立である殿下から話を聞いた。

どうやら、対総督に関しての策を講じるとなった際、ナルサスもカナタも目をつけたのは、本来であれば国都に収められるはずの納税金の行方であった。エクバターナがあのような状況に陥っている今、それを王都に届けられぬのは当たり前として、一度に金貨何千枚にも及ぶそれを、あのペラギウスという総督が大人しく見守っているはずはないと踏んだのである。
実際に総督府に置かれた高価な装飾品を見れば、ペラギウスがどんな人物かということは見て取れた。

そこで、絹の国から戻ったグラーゼの名前を借りて、総督に「生きた献上品」を持っていく。その献上品に夢中になっている間に、誰かが総督府に忍び込んで納税金の行方を探り、それを証拠として突きつけて彼を総督の座から引きずり下ろす、というシナリオだった。
そこまではナルサスとカナタの意見は一致しており、何も打ち合わせをしていないのに話がトントン拍子に進むのをアルスラーンは驚きながら眺めていたという。

「だが、そこで『生きた献上品』に誰が適しているかという話になり、ナルサスはファランギースに任せるべきだというし、カナタは自分が適していると言って、それで」
「喧嘩になった、ということですね。よく分かりました、殿下」
「エラム。大体カナタが、殿下直属の部下であるということを自負していないのがよくないのだ。ここはファランギースに任せて、自身は殿下をお守りするのが務めだというのに」
「ナルサスさまの言うことは世迷い言です。そもそもグラーゼ殿は今日、絹の国から帰ってきたというのに、そこにわざわざファランギースを使って違和感を加えることがおかしいというのが、ナルサスさまには分からないのです。ここは絹の国の出身である私が行くべきです」
「駄目だ。それにお前は俺の、」

可愛い弟子、とつい言いそうになって、ナルサスは口ごもった。

「俺の何だというんです。私はもうナルサスさまの弟子ではありません」
「いいや、お前はとにかく駄目だ。危なすぎる。そもそも男を誑かすということもよく知らぬではないか」
「いざというときのためにジャスワントを小姓として連れていくと言ったではないですか。それに、私が男性を誑かす方法を知っているということを、ナルサスさまがご存知ないだけではないのですか」

あくまで挑発的なカナタの態度に、さすがのナルサスも怒りを抑えきれないようだった。ついには表に出ろ、と言いはじめやしないかとアルスラーンはハラハラしていたが、そこはあくまで知略を尊しとする二人、こうなっては何としてでも言葉で相手を組み伏せないと気が済まないのである。
そうこうしている間に、何だ何だと駆けつけた仲間たちも、二人の不毛な言い争いに巻き込まれているアルスラーンを不憫に思い、間に入ったエラムが何というかをただ見守っていた。

「殿下、僭越ながら私にお許しをいただけませんか」
「分かった。ナルサス、カナタ。ここはエラムの意見を聞こう」
「不肖ながらお許しをいただいて申し上げます。そもそも目的は絹の国からの土産と偽ってあの総督の目を眩ますということ…
つまり、ファランギースさまとカナタさまが、それぞれ絹の国の衣装で身を飾り、それを見た上でどちらが適しているか判断するべきではないでしょうか」

エラムの判断は公平に見えた。アルスラーンがそれを採用するといえば、ナルサスもカナタも静かに身を引き、カナタは早速エラムによって別室に連れられていった。