012/告白

「どうした、カナタ」

いつにもなくぼうっとした様子のカナタを心配してか、ナルサスはその目の前で何度か手を振った。引き戻されたようにハッとしたカナタであったが、先程感じた切なく締め付けられるような感覚が何かをここで確かめねばならないと、理由のない使命感に囚われて口を開く。

「ナルサスさま、その」
「随分と顔が赤い、酒に酔ったのではないか」

心配するように覗き込んでくるナルサスの瞳に自分が映っているのを見ると、耐えきれずカナタは慌てて目を逸した。見つめ合って仕舞えば、込み上げてくる何だか分からないその感覚を制御できる自信がなかったのだ。

「いえ、少ししか飲んでおりませんので…何と言えばいいのか分からないのですが、ナルサスさまのお顔を見ていると、少し胸が苦しいような、それでいて途方もない幸福感があると言いますか…」

自分の状態を何とか説明しようとするカナタであったが、それを表現するに相応しい言葉が見つからぬようで視線を彷徨わせた。
様子のおかしいカナタを見て、ナルサスはその示すところはまさか、と思わないわけではなかったが、ここで早合点してはならないと彼は彼で必死に平静を保とうとしていた。しかし無垢なカナタはそんなナルサスの苦労など知るはずがない。そうして彼女の言葉は更に襲いかかって行く。

「突然に胸が高鳴りすぎて、張り裂けそうなのです、ナルサスさま」

カナタの手がナルサスの手首を掴み、そのまま彼女の左胸に押し当てられた。正直なところ、彼女の熱っぽい視線と触れたところの柔らかさに、ナルサスも最早目の前にいるカナタのことしか考えられぬようになっていた。いかん、と理性が警報を鳴らしているが、得も言われぬ扇情的な雰囲気を纏った彼女がゆっくりと瞬きを繰り返す度に、何もかもがどうでもよく吹き飛んでしまう。

思い込んだらまっしぐらな彼女の性格はナルサスが一番理解しているところだったが、まさかこんな方向にまで発揮されるとは、とそんなことが脳裏に浮かんでは消えていった。

「カナタ、おぬし、それを何と言うのか分からぬか」
「きっと承知しております。しかし…教えてくださいませぬか、ナルサスさま」
「この期に及んでまだ知りたいというのか。可愛い俺のカナタよ」

もう『可愛い弟子』などと思えるはずもない目の前の一人の女性に、ナルサスは余裕なく微笑んでみせた。そうして殊更にゆっくりと、一つ一つの音を壊さぬように唇に乗せた。

「それが、恋というものだ」

柔らかで甘い響きを持ったそれを、カナタは目を丸くして聞いていた。しばらく何度か、そうですか、これが恋というものなのですね、という言葉を繰り返し、自分の胸に触れさせたナルサスの手を放すと再び彼に身体を密着させ、先程と同じくその胸に両手を添える姿勢を取った。しかしそれは最早男を誑かす試みなどというものではない。

どちらのものか分からぬ心臓の音が鼓膜を犯し、見つめ合うほどに身体の奥が多幸感でぎゅうぎゅうと押しつぶされるような感覚であった。そうして数分は見つめ合ったままだっただろうか。カナタはナルサスの瞳から目を逸らすこともできず、先程認めたばかりの感情を、堪えきれず声に出した。

「お慕い申しております、ナルサスさま」

全身を沸騰した甘い蜜が駆け巡っていくような感覚を、ナルサスは覚えずにはいられなかった。目の前のカナタを無我夢中で抱きとめると、彼女のうなじから立ち上る香油の香りで脳内を侵されるのが至上の幸福のように思われる。カナタは嬉しさからその瞳いっぱいにためた水面から雫を溢し、ただただ自分を包む圧迫感に酔いしれた。

やがてナルサスはその拘束を少し緩めると、カナタの顎を指で持ち上げ、目を合わせるように誘導した。カナタは先日シャガードに同じことをされたはずのその視界も思考も奪う行為に、今は一切の抵抗も不安も持ち合わせず、ただこみ上げてくるナルサスへの気持ちに全てを委ねた。

かのように見えたのだが。

「……え?」
「…」
「…カナタ?」

唇と唇がもう触れてしまうかというところで、カナタは自分の顔を引き、代わりに両手をそこにねじ込んだ。ナルサスはきょとんとした表情で彼女を見たが、どうやらその表情は恥じらいなどではなく、断固とした拒否を示していた。先程の甘い空気はどこへ行ってしまったのか、その場は信じられないほど冷たく静まり返り、ただただ無言の時間が続いた。カナタはぐいぐいとナルサスの身体を押し返し、少し離れて座り直すとようやく口を開いた。

「ナルサスさまは、ご卑怯です」

想像もしなかった彼女の言葉に、ナルサスは咄嗟に何も出てこなかった。そんな彼の気持ちなどいざ知らず、カナタはそのまま言葉を続ける。

「私は先程、ナルサスさまに自身の気持ちをお伝えしました。それなのに、ご自分は何も言わずに唇を奪おうとするとは、それは道徳者のやることではありません」
「いや、それはだな…」
「そうやってご自分を慕う女性がいれば、男性として立場を明らかにせず事に及ぶのですか?」
「わ、分かったカナタ。落ち着け。俺とておぬしのことを」
「なし崩しで聞きたくありません。私のことを男を誑かす方法も知らぬと言いましたが、女心の分かっていないのは、ナルサスさまの方もではありませんか」

これはスイッチが入ってしまった、とナルサスはもはや何を言っても火に油を注ぐことにしかならぬと悟った。カナタがそういう貞操観念を身につけたのは、ひとえにナルサスの過保護な師弟教育があったからこそなのだが、彼は自分がそういう風に育てたなどと考える頭は持ち合わせていなかった。

「私はナルサスさまがきちんとお気持ちを伝えてくださるまで、待つつもりです」

確固たる意思を持って真面目にそう言い放つカナタを見て、ナルサスはただ静かにそれに頷くほかなかった。また日を改めて自分の気持ちを彼女に話そうと、そう決意した矢先、追い打ちをかけるようにカナタの口からとんでもない言葉が飛び出した。

「…かつてラジェンドラ殿に『知略において我が師より勝っている者でなければ結婚できぬ』と言いました。覚えていらっしゃいますよね」
「ああ」
「しかしナルサスさまは今、我が師ではありません」
「そうだが」
「ですので、今は自分の尊敬に値すると思うような志を持った殿方と結ばれたいと思っています。それは王都を奪還した後に国がどう変わっていくかによって、きっと誰のことなのか分かることでしょう」

開いた口が塞がらない、とはこういうことを言うのだろうとナルサスは実感した。そうしてまさか自分の口が開いて塞がらないことが本当にあるなどと、この瞬間までは思わなかった。つまりはナルサスの策で王都の奪還が達成され国が繁栄の礎を築くまで、カナタへの告白も、その唇を奪うのも、お預けということなのだ。
彼女は全てを言い切るとすっきりした表情で席を立ち、待っていますから、と短く告げてナルサスの前から去るのだった。

こうして焚き付けられたナルサスがまずは王都の奪還に向けてどれだけの策を巡らせたかは、またその後の話である。

End.