011/逢瀬

目の前のカナタであるがカナタではないような雰囲気の彼女に瞬きを繰り返しながら、ナルサスは自然に注がれる葡萄酒を酒坏で受け止めていた。

「こうしてゆっくり話すのは、いつぶりでしょう。ナルサスさま」
「そうだな…少なくとも七日は言葉を交わしておらぬな」
「ギランの街はまだまだ、公正に裁かれるべきことが多いですから。グラーゼ殿に任せるには、もう少し時間が必要ですね」
「ああ。ところでカナタ、聞いてもよいか」
「なんなりと」
「おぬし、ここで何をしている」

咎めるわけでもない、怪しむわけでもない、単純な疑問のようであった。カナタは口元を隠して笑うと、自分の酒坏にも葡萄酒を入れてそれを一口飲んだ。

「ナルサスさま。私はこれまで、知が足りぬと思えば知を補い、武が足りぬと思えば武を補ってきました。今回足りぬと思ったのは、そうですね…『色』と言えばよいのでしょうか。何せ、私は男性を誑かす方法もよく知らぬものですから」
「おぬしは本当に、記憶力がいいな」

妓女風に振る舞う彼女の口調にはいつもよりたっぷりと余裕が含まれていた。男を誑かす方法も知らぬ、と言った記憶に引きずられて、自らの地位を濫用して彼女の意思を無理やり曲げたことを思い出し、ナルサスは軽く頭を抑えた。

「別にナルサスさまを責めているわけではないのです。もうあのことは良いのですが、ただその後も、意地を張って受け止められなかった自分を恥じていました」

そういうわけで、カナタはギーヴに『男を誑かす方法を学びたい』と申し出たらしかった。ナルサスはその場に居合わせたわけではないが、ギーヴの困った様子がまるで目前に浮かび上がるように見て取れたので、珍しく彼に対する同情を禁じえない。

「色を学ぶのであれば妓館がいいと、ギーヴがグラーゼ殿と共にこの妓館の主人に口を利いてくれたのです。妓女の姉様方も私に良くしてくれて、お陰で一通りのことはできるようになりました」
「新しいことを学びたいという意欲は持ち続けるのは殊勝なことだが、そのうちおぬしは何になるか分からんな」

呆れたようにそう言うナルサスに向けて小さく微笑んで、カナタは別の話題を切り出す。

「ナルサスさま、シャガードさまのことを話しておきたかったのです」
「攫われたとき、武器商人の店の前にいたのだろう。大方何か細工をされた剣を渡されたのだと思っていたが、違わぬか」
「その通りです。そこは私の不徳の致すところなのですが…シャガードさまは私のことを攫ってからも、海賊たちに対しては罵詈雑言を浴びせていましたが、私のことは何処か気にかけてくれているようでした。だから、その」
「カナタ。俺に気を遣って奴のことを取り繕う必要はない。あやつがお前にどんな面を見せたとて、したことが変わるわけではないからな」
「…そうですね。過ぎた真似を」
「いや、気持ちが嬉しくないわけではない。おぬしがいてくれて、本当に良かった」

ナルサスとて、旧友との結末に何も思わないわけではなかった。時間がある程度のことは解決したとしても、その関係が修復されることはない。今更ながらに、旧友を失うというのは耐え難いことだ、とようやく自身の心にも傷が残っていることを認識し、それに気付いたカナタを慈しみたいというのは本心だった。
ゆるく結われた彼女の髪を一房手に取ると、そこから滑らせるようにしてその頭を撫でた。カナタは嬉しげに目を細め、自身も思いの丈をナルサスに伝える。

「私も、ナルサスさまが私を信じてくださって、良かったと思っています」

彼女がそう語るのは、人質に取られた際にナルサスが彼女を信じて剣を放り出したことを受けてだった。それに加えて、シャガードがカナタを捕らえたことを知っていて、しかし最後の最後にシャガード本人が彼女のことを持ち出すまで決して自分の無事を疑わなかったナルサスの様子も知り、カナタはその信頼を一心に受けていたのだということを悟っていた。

「免許皆伝をいただき、ペシャワール城を発ってからも奮闘を続けてまいりました。しかしもしかすると私にはまだ信用に足らぬところがあるのかと、疑心暗鬼になっていたのです」

あのとき、ナルサスはカナタのことを信じて剣を放し、自分に寄せる信頼を示してくれた。だから嬉しかったと。そう吐き出す彼女の隣で、ナルサスはぼんやりその横顔を眺めていた。感情を素直に表すカナタが何やらいつもより愛おしい、そう感じていたのである。
その愛おしむような視線を感じてか、カナタは隣に座るナルサスに体重を預け、逞しい胸にそっと自分の両手を添えると、彼を見上げるようにして再度口を開いた。

「ナルサスさま、まだまだお側にいさせてください。弟子ではなくなっても、この世界で私の帰るところは、ナルサスさまのところだけです」

潤んだ瞳が、上気した頬が、懇願するような声が一気にナルサスに飛び込んでくる。そして立ち上ってくる香油の香りが鼻を掠めた。それは羊皮紙につけられていた香油と同じもので、なるほどそれであの妓女はカナタを呼びに行ったのかとぼんやり考える。香りにくらりとしそうになりながらも、ナルサスは彼女の両手を握ると自身の胸から引き剥がし、その小さな膝の上に置いた。

「…カナタ、それがここで覚えた『男を誑かす方法』か」
「試してみたのですが…やはり、生熟れが否めませんか」
「拙い方が良いという人種もこの世の中には存在するが…そうだな」

本当はうっかり胸の高鳴りを覚えたのを隠すためにカナタの手を退けたのだが、どうやらそれは彼女には伝わらなかったようであった。内心で胸を撫で下ろし、何か話題を変えねばと苦し紛れに切り出す。

「ところでお前、色を学びに来たと言っていたが、そもそも自身の感情はどうなのだ」
「感情とは?」
「つまり、異性を相手にしていて何か感じるものはないのかということだ。誰かを見ると胸が苦しくなるとか、他に何も考えられなくなるとか」

カナタは一息考えて、そういえばどこかで同じことを言われたなと記憶を手繰り寄せた。そうして武器屋の前でシャガードに近寄られ、眼前にその端正な顔が近付いてきたときのことを思い出す。

「ナルサスさま、実は私、攫われる直前にシャガードさまに迫られ、同じことを聞かれました」

どういう状況だ、とナルサスは突っ込みたくなる気持ちを必死に抑えて酒坏を手に取った。自分の知らぬところで彼女が色々な経験を積んでいることを思うと、弟子だった頃はその行動が全て見て取れたので心配事も今ほど多くなかったなどと懐かしむ気持ちすら芽生える。
もしかするとエラムにも近いうちにそんな心配事が出てきてしまうのではないかと、ナルサスは珍しく肝を冷やしていた。

「その時は深く考えていませんでしたが…確かにシャガードさまにそうされたときも鼓動は速まりはしたものの、どちらかというと危機感に近かったです。この妓館で出会う男性と会話したり身体を密着させても、胸が苦しくなるなどとは無縁ですね」
「つまりこれまでに一度も、そういう経験はないのか?」

それも同じことを聞かれた、とカナタは思ったが、何かが違っていることに気付き口を噤んだ。
目の前にいるナルサスにそう聞かれたことで、彼女は自身の感覚にどこか切なく締め付けられるようなものを覚えた。自分は今までナルサスと一緒にいて、そう思った経験がなかっただろうか。自分自身に問い掛けてみると切ない感覚がより一層強くなり、何か得体の知れないものに心をトントンと叩かれているような気がした。