010/逢着

シャガードの処分については、アルスラーン殿下が言い渡した「一年間奴隷として生活を送る」という内容で決議し、その後はダリューンが中心となって海賊の残党を片付け、ギランの海賊騒ぎは収束した。かくして街には平和が戻り、ギランの民はアルスラーン王太子に大変に好意を抱いたし、それまでどこに姿を隠していたのかというほどの富豪たちが、こぞってアルスラーン殿下に出資をしたいと申し出に来た。もちろんそこに利益があると分かりきってから行動を起こす者ばかりであったため、これにはアルスラーンも苦笑いを浮かべて肩をすくめるばかりであった。

「え?カナタが今日も帰っていない?」
「はい…昨日も夕餉の後にここを出て行って、まだ戻っておられないのです」
「まさか、また何か危険な目に遭ってはいないだろうか。すぐ兵を…」
「殿下もエラムも、どうかしたんですか?」
「カナタさま!もしかして、今お戻りですか?もう朝ですよ」
「ここのところ毎晩不在にしているようだが、何かあったのか?」

アルスラーンからの問い掛けに、カナタは至って真面目な表情で答える。

「殿下、私は今修行中の身なのです。ギーヴとグラーゼ殿が詳細を知っておりますが、他言無用と伝えてありますゆえ、二人に私のことを聞いてはなりませぬ。ただ、より殿下のお役に立てるようになるためというのは偽りのないところですので、どうかご容赦ください」

海賊沙汰が落ち着いて以来、カナタは毎晩どこかへ出かけて、そうして次の日太陽が上る頃に王太子府に戻る生活を送っていた。まるでギーヴのような生活だなとアルスラーンが呟くと、エラムは何か思うところがあったようだ。そしてカナタに対して無理しないでくださいと短く言った後は特に追及しなかった。

ナルサスはといえば、無事だったとはいえ敵に誘拐されたカナタのことを心配しないわけもなく、何よりも騒ぎが一段落した後で彼女と話がしたかったので、それとなくギーヴを呼び出して聞いてみたこともあった。

「カナタの行き先?うーん、俺も他言無用と言われてるものでね、軍師殿。どうしても知りたいっていうのなら…七日経った後、覚悟を決めてから俺にもう一度話しかけてくれぬか」

そう言われて、そもそもカナタが他言無用と言っていることに自分が首を突っ込む権利はない、と大人のふりをして諦めた。明け方に帰ってきてはギラン王太子府の仕事として税収の管理や裁判などを手伝い、一休みするとまた夜に王太子府を出て行く。奇妙な繰り返しをするカナタは、それでも皆の前でどこか充実したような表情を見せることが多かった。そういうわけで不思議には思いつつ、一同は特別心配をしすぎることもなかった。約一名を除いては。

「ダリューン…カナタが何をしているか、おぬしは知らぬのか」
「何度聞かれても知らぬ。気になるのであれば、後を尾行てみれば良いではないか」
「俺には尾行をする権利はない…」
「おぬしがそういう風にぐだぐだと飲んでいるのは気色が悪い。早く何とかしてしまえ」
「酷いことを言う奴だ。俺は船の上でカナタを助けて以来、ろくに会話もしていないのだぞ」
「それはカナタがいなくて寂しいということか、ナルサス」
「…そういう訳ではない」
「いつまでも認めねば、またどこかの男に攫われてしまうかもしれぬぞ」

言った後に、もしかすると地雷だったか、とダリューンは珍しくナルサスを気遣ってその表情を見たが、彼は何かを真剣に悩んでいる様子で特に感傷に浸っているというわけではなかった。ふいに部屋の扉を叩く音が聞こえたかと思うと、その後に小さくカナタです、と声が聞こえる。机に伏していたナルサスは物凄い勢いでその背筋を伸ばすと、先程までの様子はどこへやら、低く研ぎ澄ました声で応答した。

「カナタ、入りなさい」
「いえ、用があるのはダリューンさまです。ここで済みます」

ナルサスからの刺さるような視線を背後に感じつつ、ダリューンは扉を開けた。ここのところの生活リズムであれば、今は夜半であるので彼女は王太子府にいないはずだが、一体どうしたというのだろうか。扉を開ければ、そこにはいつもと少し違った雰囲気のカナタが立っていた。服装や髪型は違わないものの、薄く化粧をしているのと、香油の匂いがするからだろうか。

「ダリューンさま。申し訳ありません、呼び立ててしまって」
「いや、いつも通り飲んでいただけだ。気にするな」
「実はこれを、ナルサスさまに渡してほしいのです。『明日使うから』と伝言もお願いできますか」
「別に構わないが…」
「明日で七日ですから。よろしくお願いします」
「おい、カナタ」

呼び止めようとしたときには、カナタは既に扉に背を向けて歩き出していた。意味深な言葉と共にダリューンに渡されたのは、硬質な羊皮紙を二つ折りにした手のひらに収まるほどの大きさの紙だった。言われた通りにナルサスにそれを渡すと、彼の方もさすがに意図が汲みきれないようで不思議にその紙を眺めていた。

翌日は珍しく朝からカナタが王太子府を駆け回っていた。久々に彼女と言葉が交わせるだろうかとナルサスは密かに期待をしていたが、そういうときに限って判断の難しい裁判を任されたり、税収に関する打ち合わせといってその身を拘束されたりと、結局日が暮れるまで息をつく間もなく、目は合えど言葉を発する前に横からやるべきことが衝突してくるといった形であっという間に一日は終わった。
凝り固まった身体を伸ばすようにしてようやく目の前の緑茶に手をつけると、ナルサスの瞳に例の紙が映った。明日使うというカナタの伝言と、そういえばギーヴが七日後と言った日付が今日だということを思い出し、ナルサスはすぐさま彼を呼び出した。

「俺を呼んだということは、覚悟が出来たということかな。ナルサス卿」
「覚悟とは何に対するものか知らぬが、おぬしとカナタが何か企てているような気がしてな」
「天下の軍師殿に対して企てなどと、そんな大層なものではござらんよ。俺はただ美人の味方なだけさ」

結局ギーヴは、覚悟というものを曖昧にしたまま、ナルサスにとあるところを訪れるように伝えた。店の名前だけを知らされ、ナルサスはすっかり夜の空気を纏ったギランの街を一人歩いていく。
名前からおおよそ予測はしていたが、辿り着いたその場所はギランでも有数の高級妓館であった。ギーヴにからかわれたのかとも思ったが、店の前に立ち尽くしているのを偶然にも妓女に見つかってしまい、ナルサスはなし崩し的に店に入ることになった。

「お兄さん、見ない顔だね。この店は初めて?」
「ああ、ギーヴという男に紹介されて来たんだが…」
「あらまあ!ギーヴ様のお連れだったのかい!あの御方は今晩は来ないのかい」
「これほど焦がれているというのに、気まぐれな吟遊詩人様だこと」

葡萄酒を注ぎながら妓女たちはそう言ってみせる。ナルサスとしてはギーヴに店を教えられカナタを探しにきたはずであったが、久々に足を踏み入れた妓館で着飾った女性に囲まれるのは昔を思い出すようで悪い気はしなかった。ダイラム領主をしていたときも宮廷にいたときも、何人かの女と浮名を流すこともあったし、そう思うと今が人生で一番女っ気がないかもしれぬ、と思ったところでやはり思い出すのはカナタのことである。
幾人かの妓女に囲まれ、酒坏を煽りながらも、どうしてかカナタのことが頭から離れない。妓女が何かを言えば、彼女ならこういう返しをするだろうと比較してしまうし、派手な露出を目の前にしても、そういえば絹の国の衣服を纏った彼女は一層女性らしく見えたななどと考えていた。

「そういえば、おぬしらこれが何か分かるか」

ナルサスはふいに思い出してそう言うと、昨夜カナタが預けていった羊皮紙を手に取った。妓女たちは特別何も書かれていないそれを不思議そうに見ていたが、その中で一番年長だと思われる妓女がその紙につけられた香油の匂いに気付き、声を上げた。

「そうかい。貴方様、あの娘の言っていた御人だね。ちょいとお前、あの娘を呼んできておくれ」

その一声で端にいた妓女が引き下がると、ナルサスの周りに残った妓女たちも何やらひそひそとざわめきだっていた。ナルサスは頭の中でまさか、と思いつつ、とにかくその場で時間が過ぎるのを待つ。そうして数分もしないうちに、薄い布で仕切られた席へ現れたその姿を見て、ただただ驚くしかなかった。

「カナタ、お前…」
「お待ちしており申した、旦那様。お姉様方、今宵の私はこの御方のために在るようなもの。若輩者が無礼を申しておるのは十分承知ですが、どうか席を外していただけませぬか」

凛とした口調で言い放つと、妓女たちは瞬く間にその場から立ち去り、空になったナルサスの隣にカナタが恭しくお辞儀をして腰掛けた。彼女が身に纏っているのは、いつぞやの『生きた献上品』の際に着ていた絹の国の衣服で、その時よりも着られている風なのが抜けていかにも妓館の女という雰囲気を醸し出していた。