001/港町

ペシャワールから長い旅を終え、アルスラーン一行は港町ギランに到着した。わずか八人になってしまった一行だったが、彼らの表情は明るかった。自らが望んで王太子の下へ再集結したという前向きな気持ちと、やっと辿り着いたギランの街への希望が、彼らの胸の中にひしめいていたからである。

街に着くと、一行は宿を探し、馬と駱駝を預けた。そうして各々割り当てられた部屋で一息つくと、すっかり砂にまみれた服を着替え、急ぎ足で街へと繰り出した。潮の香りと、商人や街の人の賑やかな声であふれかえるここは、ペシャワールからとにかく休まずに進んできた彼らにとっては久々に開放感のある場所だった。

「これが海か、すごいな…!」
「綺麗ですね。殿下は海を見るのは初めてでしたか?」
「ああ。この海の向こうに、おぬしの故郷があるのだったな」
「そうです。絹の国はこの海を超えていった先、とても美しいところですよ」
「いつか私も訪れてみたいものだ」

カナタは海の向こうを指差しながら、初めての海に感動するアルスラーンを微笑ましく眺めた。そして内心で、自分もいつかは絹の国というところを実際に訪れてみたい、と思った。本の中や話の中でしか知らない故郷に思いを馳せながら港を後にする。殿下はエラムに誘われ、何やら珍しい魚があるという屋台の方へ歩いていった。カナタはそういえば自分の昼食をどうしようかと、思い出したように感じた空腹を持て余しながら周囲を見る。

「カナタ、向こうに羊肉の屋台がある。よければ昼飯を一緒にどうだ」
「ナルサスさま!ちょうどお腹がすいてどうしようかと考えていたところです。ご一緒させてください」
「それじゃあ決まりだな」

ナルサスは何の躊躇もなく自分の右手を差し出すと、カナタの左手を取った。そうして自然に繋がれた手に二人共が胸を高鳴らせ、お互いに照れ笑いをしながら歩幅を合わせて歩く。

「軍師殿とカナタ…あれで男女の仲じゃないとは本当なのか?ダリューン卿」
「ギーヴ、俺も心底不思議なのだが、本当に全くそういうものではないそうだ」
「お互いの気持ちなぞとうに分かっていそうなものじゃが…」
「二人のように賢さが振り切れると、軍略や政事以外に使う脳味噌が残らないのでしょうか」

ジャスワントにまでそう言わしめるくらいには、二人はそう、周りから見れば限りないほどにもどかしかった。早くどうにかなってしまえ、と言いたいのは山々なのだが、何せカナタが幸せそうに頬を染めている姿などを見てしまうと、一同はその純粋な乙女の恋路に水を差すような無粋な真似なぞ到底できなくなってしまうのだった。
お互いに師弟という関係を取り去って、立場を確立した二人である。しばらくぶりに兵に囲まれた生活から離れ、もはや何も気にすることはないと吹っ切れてしまったのか。もしくは脈々と続いた信頼関係の名残が変な方向に振り切れたのかは誰にも分からない。とにかく見ていて顔を抑えたくなるほど恥ずかしいようなやりとりが頻繁に繰り広げられていることは確かである。

四人がそんなことを考えているとも知らず、カナタはナルサスに連れられた屋台で昼食をとり、その後は二人でギランの港町を少し歩いた。

「屋台で氷菓子だなんて…すごいですね、ギランの港町は」

カナタは珍しいものばかりが並ぶ屋台にすっかり目を輝かせていた。氷菓子というのは貴族や王族しか食べることができぬものだと思いこんでいたが、目の前では大きな氷を削ってそこに果物のジャムのようなものをかけた食べ物が次々と人の手に取られていく。かき氷、というもはや懐かしく思われる言葉がカナタの脳裏を過ぎった。

「本当だな。おい、店主よ。ザクロのを一つもらえるか」
「ナルサスさま、食べるんですか?」
「いや、これはお前の分だ」
「え、でも」
「俺には一口くれればいいさ」

そう言ってナルサスは、カナタに氷菓子を無理やり持たせた。さらに、反対の手に持たせたスプーンに口を近づけて開けると、そのまま視線を彼女に移す。早くしないと溶けてしまうぞ、と悪戯っぽく笑うナルサスの表情を見るやいなや、カナタは底知れず満たされていくような気持ちを感じて、はにかみながら氷菓子を一口ナルサスの口に運んだ。

端から見ればどういうやり取りなのかは、ご想像にお任せするところである。



ギランに到着してから、彼らには次の行動までに二日の猶予があった。ナルサスがこの街で頼りにしようと考えている彼の旧友が、どうやら彼の情婦を連れて遠方の別荘に行ってしまい、二日後まで戻らぬということだったのだ。その間に各々はこの街の情報を集めたり、長旅で蓄積した疲労を癒やしたりと、好き好きに過ごすことになった。はずだった。

到着した日に、彼らはギランの総督府を訪れ、ギラン総督であるペラギウスに会っていた。ペラギウスは大層慌てた様子で、変な言葉遣いでやたらにアルスラーン王太子に媚を売っては、海賊が出るというのを言い訳にアトロパテネの大戦の折には兵を出すことができなかったと言った。そうしてその海賊たちは、神出鬼没で、狙いすましたように交易船を襲っては、自警団が駆けつける前に姿を眩ましてしまうのだという。

一行はそれを真っ赤なウソだと捉えていたが、その翌日、実際に彼らの目の前に海賊船が現れ、港に入ろうとする船を襲ったのである。

あの船を助けることに何の算段もない、とは言い切れないが、目の前で襲われている者を放っておく訳にはいかない。とにかくアルスラーン一行は、口々に理由をつけては沖に出ない様子のギランの船主たちを横目に、炎を上げながらもこちらに向かっている船を助けに行くことにした。船着き場でカナタは懐から布袋を取り出すと、高らかに言い放った。

「どなたか、この金貨で私たちに船を貸してはいただけませんか。あの船を救いに出たいのです!」
「お嬢ちゃんが行くのかい?そいつは無謀ってもんさ、あそこにいるのは海賊なんだぞ」
「あの船が沈んだら次は誰の番かも分からないなんて、ギランの港の商船主とやらは数字になっていない物事の予測は立てられないのでしょうか」
「なんだと?!」
「その辺にしておいて、大人しく船を出したほうが良い」

大声を出してカナタを威嚇しようとする男の肩の後方から、ずっしりと凄味を込めたダリューンの手が乗せられた。男が慌てて振り向くと、眼光鋭いダリューンの背後にも、ギーヴ、ファランギース、そしてジャスワントがそれぞれに牽制する姿勢でそびえ立っている。
どうなっても知らねえぞ、と捨て台詞を吐きながらも、男は船を出すほかなかった。カナタは四人に小さく礼を言うと、男の船に乗り込んで、長剣の存在を確かめるように手を掛けた。

船が近くに来た時には、海賊たちは商船に乗り込み、攻撃を始めていた。劣勢と受け止め、カナタはファランギースとギーヴに弓の準備を命じる。二人はおよそ普通の者なら届かぬような位置から矢を放つと、見事に船の上で剣を振りかぶっている海賊たちを撃ち止めた。

「ダリューンさま、乗り込みましょう!」
「ああ、行くぞ!」
「仕方ない、この街の連中に名前と恩を売る好機だからな!」

ギーヴの言葉を皮切りに、五人は距離の近づいた海賊船に乗り込んだ。ダリューンとカナタは敵をなぎ倒しながら、そのままの勢いで今度は商船に乗り込んでいく。後から乗り込んだジャスワントは、船の上に油の入った樽を見つけると、中の油を船上に撒き散らした。タイミングよく察知したファランギースが神業のような正確さで樽の鋲に矢を打ち込み、火打ち石の要領で油に火を付ける。勢いよく燃え広がるそれに、海賊たちの悲鳴が上がった。

「さぁ、誰から死にたい!」
「遠慮なくかかってきなさい!」

カナタはダリューンには到底及ばないものの、ペシャワール城から王都までの行程で経験した数々の戦の中で実践で刃を交える経験を積み、剣に関しては一人前の戦士と呼んでいいほどの実力を身につけていた。そこにもはや言うまでもない強さを備えたダリューンがいる。二人は立ち向かってくる海賊たちを瞬く間に斬り捨て、その様子に勝ち目がないと悟った残りの者は一目散に海へと逃げ出していた。