山奥で3人で

Episode.4

「カナタさま、前髪が伸びてきましたね」

それは、バシュル山がようやく早春を迎えた頃の話であった。

この世界に来てはや数ヶ月、カナタはすっかりと山小屋での生活にも慣れ、相変わらずその頭に知識を蓄え続けていた。朝起きて身支度を整えると、食事を取り、本を読む。昼食を済ませるとエラムとともに近辺の探索を行い、夕飯までは大抵ナルサスと地図を並べて用兵や軍略について学びを深めた。夕食を終えると、エラムの後片付けを手伝い、夕方までの戦局が盛り上がっていればそのまま議論を重ねることもあったし、そうでない場合には読書の時間に充てた。始めの頃は浅かった眠りも、今では朝まで目覚めることなく横になれるようになっていた。

「確かに…。ここに来てから一度も切ってないから、伸び放題になっちゃった」
「ご自分で切られてはどうです?鋏なら貸しますよ」
「やっぱりいいよ、エラム。ありがとう。これはね…」

カナタは口元まで長くなって耳にかき上げている髪の毛を撫で、エラムにやんわりと拒否の姿勢を示した。小屋まで戻る道を歩きながら、前髪を伸ばしている理由を彼に語る。そうして今や見慣れた扉を開けると、書斎で待っているナルサスの元へと向かうのだった。

「遅かったではないか、カナタ。昨夜の続きからやるぞ」

待ちきれないといった様子で口を開くのは、この山小屋の主である旧ダイラム領主のナルサスだった。昨夜はあまりにも盤上での戦いに火がついてしまい、結局夜遅くになってもなかなか床につかないカナタの様子を見かねたエラムに二人して叱られたのである。そうしてこれから続きを、というところなのであった。彼女は用意された椅子に腰掛けると、戦局を見誤らないよう、じっとその盤を見つめる。

ナルサスは元々彼自身、身なりに必要以上に気を遣う人間ではなかった。ダイラム領や宮廷にいた頃はそれこそ諸侯らしい振る舞いや格好を心掛けていたものの、今ここでは誰に気を遣う必要もない。
しかし彼の目には今、盤上に視線を注ぐカナタの前髪が、俯いた加減で彼女の顔の前にバラバラと落ちている光景が映っていた。そのまま顔を伏せていれば目にかかることはないが、持ち上げれば視界にちらついて邪魔なのは明らかである。
しばらくカナタは考え込んでいそうだし、少し視界を開いてやろう。そう思ったナルサスは、懐から小刀を取り出すとおもむろに彼女の前髪を掴み、ちょうどよいと思われる長さで切り取った。

前髪が引っ張られた感覚と、直後に響いたザクリと威勢のいい音を聞いてカナタは硬直した。今、自分は何をされて、どうなっているのか。顔を下に向かせた体勢のまま数秒考え込んだ彼女は、間もなくして状況を察知した。両の目から堪えきれない熱いものがこみ上げるのを感じるや否や、片手で前髪を押さえて勢い良く立ち上がる。言葉を発しようとしても歪んでしまう口元をもう片方の手で隠したので、カナタは妙な格好でナルサスの前から走り去ることになってしまった。

「おい!カナタ!」

追いかけるように片手を持ち上げたナルサスは、直後緑茶を持って部屋に入ってきたエラムによってその手の行き場を失ってしまう。彼がもう片方の手に掴んでいた髪の毛の束が、ぱらぱらと床に落ちた。

「ナルサスさま、今カナタさまが走って行きましたけど、大声を出してどうなさったんですか」
「エラム…それが実は」

事のいきさつを説明され、エラムは大きく溜め息を吐いた。確かにナルサスは、時々その見た目からは信じられないほど衝動的に物事を行う癖があった。しかしまさか少女の前髪を突然に小刀で切り取ってしまうなどとはさすがのエラムも予想だにしなかったことである。

「無断でそういうことをされたら誰だって驚きます!それにカナタさまの髪、あれは…」

エラムはつい先程カナタから聞いた話をそのままそっくりナルサスに話した。彼の主はそれを聞いて大きく目を見開いたかと思うと、エラムにいくつか依頼を言い渡し、今日は自室で筆を取ると短く告げた。

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「お花見?」
「はい、いつもより少し山を下ったところに、李の木がたくさん生えているんです。この時期は満開でしょうから、一緒に行きませんか?」
「わかった。…前髪、ヘンじゃないかな」
「おおよそは整えたので大丈夫だと思うんですが…。そうだ、カナタさま」

名前を呼ばれたカナタが首を傾げると、エラムは倉庫から大切そうに両手で抱えるような大きさの木箱を持ってきた。彼は箱を手に持ったまま「開けてみてください」と彼女に言う。玉手箱のようだ、とカナタは綺麗に作られたその箱の見た目に驚きつつ、その蓋を取った。

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「天気も良いし、花見日和だなあ」

山小屋からやや離れた、李の木が群生するところに差し掛かると、ナルサスはその花を余すところなく愉しめるような場所を陣取る。そうして持ってきたイーゼルを置くと、エラムの用意した椅子に腰掛けて早速絵を描き始めた。
彼がカナタの前髪を切って、まだ翌日である。しかしながらそのことをあまり取り立てても彼女が混乱してしまうだろうと、ナルサスは今朝ほど短く「すまなかった」と告げてからは特にそのことに触れなかった。

肝心のカナタの方はと言えば、ここに来るまでになんとか調子を取り戻したようで、今は頭上に広がる淡い桃色の花に思わず口を開けて見惚れていた。彼女の顔が明るくなったことで、その様子に気を揉んでいたエラムの表情もいくらか和らいだように見えた。

「カナタさま。よくお似合いですよ」
「本当?変じゃない?」
「ええ」

エラムが倉庫から持ち出した箱の中には、今まさにカナタが着ている服が入っていたのだった。少し前に市場で絹の国から持ち込まれた布を見つけたエラムは、それを変装用の服にと購入していた。彼はそれが若い娘らしいと選んできたつもりであったが『これはかの国の祭典などで着る柄で、目立ちすぎてよくない』とナルサスに言われ、上等な布をそのままにしては勿体無いとカナタの丈に合わせて服を仕立てていたのだ。

薄い桃色の地に上からぼかすように描かれた紅の花が咲くその布は、確かに普段使いにしては華美であった。しかし今彼女の立っている満開の李の花の下であれば別だ。まるで花びらが舞い落ちてそのまま入り込んだような華やかさに、ナルサスの目線も自然とそちらに向いている。

「髪に花びらがついておるぞ」

ナルサスにそう言われ、カナタは胸元まである自分の髪に李の花びらがいくつかついているのを見つけると、片側に自分の髪の毛を集め指先で優しく解す。
額に髪をおろしていくらか幼くなった雰囲気。伏し目がちになった彼女の睫毛の作る影。そして可憐な李の花とのコントラストが、突然の出来事のようにナルサスの瞳を縫い止めた。

「お前、綺麗だなあ」

そんな風だから前髪だけでも欲しくなったのかもしれぬ、とナルサスは目を細めて呟く。唐突に綺麗だと言われたことに驚いたカナタであったが、それと同時に嬉しくなったのも事実であった。彼女は緩やかに口角を上げ、昨日ぶりにようやくナルサスと口をきいた。

「ありがとうございます。まだ少し、肌寒いですね」

羽織っていなさい、とナルサスは自分の着ていた淡緑色の上掛けをカナタに近付いて肩に掛けてやった。ほのかに残る彼の温もりが、カナタにここで今、この世界で生きているということを実感させる。先ほどと同じようにまた自分の髪に乗ってきた花びらを一枚一枚つまみながら、目を伏せたままで彼女は語る。ナルサスはそれを見ながら、いい画になりそうだと独りごちた。

「本当はナルサスさまのような髪型にしたくて、前髪も伸ばしていたんです」

それは昨日カナタの髪を切ってしまった後、エラムが話したものと同じ話だった。ナルサスはそれを初めて聞いたようなふりをして聞き流す。

「でも…前髪を切ってみたら、こんなに綺麗で素敵な景色が見えました。だから、ナルサスさまのようになりたいという気持ちはまだありますが……私は私の目で、この世界を見ていけたらって思います」

彼女の瞳に映る花びらの一枚が、ゆっくりとスローモーションがかって落ちていくように感じた。自分のようになりたい、そしてこの世界を見ていきたいと唇を動かす少女に、ナルサスもまた彼女なりの視点でこの世界をよく見てほしいと考える。そうして彼女が何を感じ、思い、学んでゆくのか。そればかりが気になって仕方ないのは何故かというのは、己の心に問いかけても答えが返ってこない。出て来るのは単純な言葉だけだった。

「カナタ、俺の弟子になりなさい」

脈絡もなく吐き出された台詞に、名を呼ばれた少女は思わず睫毛を持ち上げた。俺の世界の見え方を教えるから、お前はお前なりの見方を見つけるが良い。そう続けられてカナタは思った。嗚呼、やはりこの人が自分をここへ呼んだことに相違はなかったのだと。

「はい。先生」

精一杯教え手を敬う呼び方を、カナタはそれくらいしか知らなかった。しかし呼ばれたナルサスは満更でもないという様子で、またひとひら、彼女の美しい髪につかまってゆく淡く色づいた花びらを嬉しげに見つめた。

End.