最強マルダーン計画 2

その日、万騎長ダリューンは珍しく自分の屋敷に足を向けていた。理由は一週間ほど前にダリューンの家で働きたいと申し出てきた少女である。ダリューンの屋敷は元々自由民の夫婦に管理を任せていたが、彼らには少女について説明も疎かに王城での生活に戻ってしまったから、何か問題が起きていないか気になって仕方がなかったのだ。
久々に見る屋敷は、相変わらず自分の家とは思えなかった。まだ帰る場所として定着せぬそこに、しかしダリューンは意を決して足を踏み入れる。

「まあ!おかえりなさいませ、旦那さま!」

玄関の扉が開く音を聞きつけて、息を切らして駆けてきたのは少女―――ミレイだった。その早さたるや、飼い始めたばかりの犬でもそんなに勢いをつけて走っては来ないぞ、とダリューンが思うほどであった。手には木杓子を持ったまま、恐らく調理をしていたのだろう格好そのままの彼女は、花が綻ぶどころか大輪が咲き荒れるような笑顔でダリューンを迎えた。

「ちょうど夕飯の支度をしていたところでございました、今夜はこちらでお休みになりますか?」
「あ、ああ。確かに良い匂いがするな」
「どうぞ。お疲れでしょう」

ミレイは手際よくダリューンから外套と長剣を預かると、流れるような動作でそれを綺麗に整えて置き、食卓へと彼を案内した。厨房から漂ってくる何とも良い香りに己の空腹が刺激されるのを感じ、ダリューンは低い机の前に腰掛ける。
あっという間に目の前には色とりどりの料理が並べられ、まず彼の目を満たした。絹の国風に盛り付けられた目に鮮やかな料理の中に所々パルスの家庭料理も混じっており、それにダリューンが驚いているうちにミレイは再び花のような笑顔で「召し上がってくださいまし」と告げた。

「では、いただこう」

腹が減っていた、と言えば単純な理由だが、今のダリューンが目の前の料理に手を付けないという選択はなかった。最初の一口がその口に運ばれていくのをミレイは緊張しながら見守っている。

「…うまい!」
「本当でございますか!よかった。お口に合うか心配していたのです」
「いや本当に、これはうまいな」
「まだまだたくさんありますから、遠慮なく召し上がってください」
「む、そうか?ではこれをもう一皿くれ」
「はい!」

ダリューンが料理を口に運ぶたび、ミレイは心底嬉しそうな顔をした。皿が空けば厨房に向かって温かな料理を用意したし、食の進み具合を見て麦酒や葡萄酒を運んだ。どれだけ大量に用意していたのか分からないほどの料理は、瞬く間にダリューンの胃袋に収められ、食後には季節の果物が盛り付けられて出される。それもぺろりと平らげると、ダリューンはようやく手を止め満足げに大きく息を吐いた。

「ふぅ、こんなにうまい飯を食べたのは久し振りだ…いや、少々食べすぎたか」
「旦那さまは日々その身を鍛え、戦をしていらっしゃるのですから、これくらい栄養をつけてちょうどよいと思いますよ」

満腹感と心地よく酔ったのとでダリューンはすっかり気分を寛いでいたが、はたと横に座る少女に目を向けた。美味な料理に舌鼓していて忘れていたが、腹が満たされてようやく彼女がここにいるということに意識を戻せたのだ。

「ミレイ、その『旦那さま』というのはよさないか」
「どうしてです?パルスでは下働きする者が主人をそう呼ぶのは不自然でしょうか」
「そうではないが…」

ではダリューンさまとお呼びいたしますね、と少女は特にそこにこだわりもないように言った。まだパルス文化に慣れない彼女にそのニュアンスを説明するのはダリューンも得意としないところだったので、あっさりと引き下がってくれたのをありがたく感じる。

「俺はこのように時々しか屋敷には戻らんが、何か不自由はしていないか。老夫婦とは会ったか?」
「もちろんです、私も同じ従者だというのに、とてもよくしていただいています。彼らはこの時間にはもう屋敷のことは終えて部屋に戻っていますから、私は厨房をお借りしているのです」

絹の国の料理はもちろんパルス料理の腕も磨かねばと意気込んでいるミレイは、老夫婦にパルス料理の食材や味付けについて教わっているようだった。確かに彼らの年から言えばこの年の少女は可愛いがり甲斐があるかもしれぬ、とダリューンは納得する。

「ところでおぬし、この数日で俺の他にパルスの騎士たちの姿を見ただろう。こんなに料理が上手ければ、若い騎士などはそれを望むに違いない。俺の部下にも有望なやつがいるから何なら紹介して――」
「ダリューンさま、私はこのような形で転がり込んだ身ですが、決して無類の強さだけを求めてパルスへ来たのではありませぬ」

ミレイの瞳が急に真剣味を帯びる。決して他の男のところへ差し向けようとしたことなど疑わぬような真っ直ぐな瞳に、ダリューンは人知れず罪悪感を抱く。

「私は代々続く武人の家系の生まれ。しかしながら、強さこそ正義、という考え方には些か疑問があります。そんなときに祖父からダリューンさまの話を聞いたのです」

強さは使う人によって全く異なったものになる、と少女は口にする。それを己の理想に近い形で実現している男性を、ずっと探し続けていたのだとも。

「屋敷を管理している夫婦に聞けば、ダリューンさまは日々のほとんどを城で過ごされると言っていました。しかしここに帰ってくれば、夫婦を労うような言葉をかけ、陛下の治めるパルス国の繁栄に力を尽くしていることを何より嬉しそうに語られる、とも」

ミレイはダリューンが不在の間の一週間、老夫婦からダリューンの話を聞いては、その正義感に自分の思いが募っていくのを感じていた。

「私は武力の使いみちを、敵を倒すことではなく、己が信ずる者を守るためと心得ているダリューンさまに、一度お会いしてみたかったのです」

そうしてお会いして、更にそのお人柄にも惹かれてまいりました。何の臆面もなくそう話す少女を見るダリューンの瞳は優しさと少しの気恥ずかしさに染められていた。突然目の前に現れて男女の手合わせと言い出した少女に危険を感じていたが、実際はもっと純粋な好意だった、と思うとどうしようもなく照れのようなものが浮かんでしまう。しかしここで流されては自分にも彼女にも不真面目な対応でしかないと、ダリューンはきっぱりと言い切ることを決める。

「ミレイ。おぬしの決意はよく分かった、そして俺を好いてくれているということもだ。しかし、やはり今の俺は陛下のために存在する身。おぬしは今一度、絹の国に戻られよ」
「…そうですか。やはり、ダリューンさまの決意は固いのですね」

そういうところが、とミレイは彼の魅力がそこにもあることを、この短い期間の中でも承知していた。

「ですが、子孫を残すために一度国を出た女がそれを達せずに戻ることは、お家の名に泥を塗るようなもの。到底帰れませぬ。聞けばパルス国は私のような女性でも望みさえすれば職を持てるということ。ダリューンさまのお気持ちはしかと受け止めました。しばらくはこの国を放浪するのも、悪くないかと考えております」
「おぬし、何かできることがあるのか?行く宛は?」
「はて…これまで武芸の習得と研鑽と花嫁修業に専念しておりましたから、外に出て金を稼ぐというのはしたことがありません」

ダリューンは絶句した。全く能力を持たないわけではないが、まだパルスに来て一週間と少しという少女を一人、完全に統治されたとは言い切れない王都に放り出すことは躊躇われたのだ。

「…わかった。おぬしさえよければもうしばらく俺の屋敷にいて、調理人をしてくれぬか」
「それは、まだここにいて良いと仰ったのですか?」
「ああ。また今日のような旨い飯を用意しておいてくれ」
「ダリューンさま、ありがとうございます!」

ああ、やはり大輪が咲きこぼれるような笑顔だ、とダリューンは少女の顔を見てそう感じた。そうしてその笑顔を見ると何か自分の心の中に刺激されるところがあることに、多少の戸惑いがあった。帰るべき場所に帰ったとき、こんなにも大きく咲き誇る表情が迎えてくれれば、確かにそれは幸福なのかもしれない―――ミレイには何かそう思わせるだけの魅力があった。

「明日も朝早くに城へ赴かれるのでしょう。湯浴みをなさってからお休みになりますか?」
「ああ、そうさせてもらおう」

既に準備がしてあるという浴室に向かい、ダリューンは一日の汗と疲れを流すと、寝間着に着替えて寝室へ向かった。しかし扉を開けた先のその光景に、彼の抱いた気持ちにはやはり誤りがあったと訂正せざるを得なかった。寝台の横でミレイが、夜着を纏って三つ指をついて待ち構えていたのだ。

「ダリューンさま、不束者ですが、どうかお願い申し上げます。今宵の料理には精のつくものをたんとご用意しましたから、ご首尾もよろしいことかと…」
「よろしくない!断じてよろしくないぞ!!」

大きく叫んだダリューンによってミレイはあれよあれよと簀巻にされ、自身の部屋の寝台へ運ばれてしまった。そうして一晩中、誘い方に何か不備があったのだろうかと彼女は簀巻のまま思考を巡らせるのであった。

End.