最強マルダーン計画

「ダリューン卿、いざ尋常に、男女の手合わせを願いたてまつる」
「…は?」

これは、アルスラーン殿下が王都エクバターナを奪還し、アルスラーン陛下として御即位されてから間もなくしてからの、万騎長ダリューンの、男としての受難を描いた物語である。

話の始まりは、少し前に遡る。

その日ダリューンは、友であり今ではこの国の副宰相を務めるナルサスと二人で街に出向いていた。王都を奪還してからまだ数ヶ月というところである。ルシタニア軍によって荒廃させられ、都市としての機能を失いつつあったエクバターナの街には、アルスラーン陛下によって解放された元奴隷たちと、元々エクバターナに住んでいた貴族や商人、自由民たちがいる。
彼らが同様に働き、復興に向けて歩んでいけるよう、ナルサスは街の偵察を常々行っていた。普段であれば彼の部下に当たるものたちに子細に報告させて賄っているのだが、どうにもその日は自分の目で王都の様子を見に行きたいと思い立ち、偶然王城にいたダリューンを誘って市街地に繰り出していた。
ダリューンはそんな友人の申し出を珍しく思い、城で兵たちの訓練や出兵準備に追われている身なれど、多少の気分転換くらいしても咎められまい、と共に城を出てみることを選んだ。

街は徐々にではあるが、復興の兆しを見せていた。何よりナルサスの采配で土木技術に秀でたもの、その指揮を取れるものには多額の報酬が出ることになっていたことの成果が大きく見えるようだった。建物の壁や屋根、そして生活に必要な井戸や用水路といったものは大方整備され、人々は安心して寝食を行える場所が確保されたことで生きることに前向きになっていた。

「大したものだな。王都を奪還したときは、その変貌ぶりに驚いたが…今日はまた別の意味で驚かされた」
「当たり前だ。何せ俺の未来がここにかかっているからな。のんびりとやっている時間なぞ、一瞬たりとてありはしない」

自信満々にそう語るナルサスだったが、彼もまたダリューン同様、その復興具合を見て充足感を感じないわけではなかった。

そろそろどこかで飯でも食うか、と二人が下町の屋台へ向かうため路地を進んでいると、目の前に一人の少女が立っているのに気付く。

齢は十六、十七ほどだろうか。まだ少女と呼ぶべきその顔立ちとは裏腹に、体つきのしっかりした、背格好の綺麗な女子である。彼女の背中にはその背丈に似つかわしくないほど大きな風呂敷包みが背負われており、あれを一人で運ぶのは大変であろうな、とダリューンは徐々に近付いてくる少女を見ながら思う。

しかし、そのまますれ違うかと思われた少女はどういうことか二人の真ん前で足を止めた。ダリューンもナルサスも、不思議そうに思うが、少女は不躾なほどに二人の顔をじぃと見ては、何か自分の記憶と照らし合わせているようだった。
いや、厳密に言えば穴が空きそうなほど見つめられていたのは、ダリューンの方であった。どうかしたのかと少女に問いかけるダリューンの姿を見て、ナルサスはこの時既に「何か面白そうだ」と隣で二人の様子を興味深げに眺めていた。

「…見つけた」
「おい、どこか具合でも悪いのか?」

真ん丸な瞳をより大きく、ガラス玉のように輝かせ、少女はその場に勢い良く膝をついた。そうしてまるで武芸の達人のような芯のある動きで、三つ指をついた。突然のことにダリューンは咄嗟に長剣に手を掛けたが、彼女の体勢からするに敵意のある者でないことはその後瞬時に判断できた。剣の柄から手を離し、彼女に居直る。

「御前を失礼いたします。貴方様はパルス国の万騎長であり、戦士の中の戦士、ダリューンさまでございましょうか」
「さよう、ダリューンに相違ない」
「やはりそうでしたか!私は絹の国より遥々やって参りました、ミレイと申します」
「…俺に何か用か?」
「ダリューンさま、貴殿との間に子を設け、最強の戦士となる子々孫々を後世に残すことが私の望み」

一瞬言われていることの意味が理解できず、ダリューンは短く聞き直した。言葉がうまく伝わらなかったのかと思った彼女は、別の言葉で言い換える。

「いざ尋常に、男女の手合わせを願いたてまつる」

生真面目な顔でそう言い放つ少女の言葉に、やはりダリューンは固まっている。しかしそれは意味が分からなかったからではなく、意味が分かった上で理解が及ばないのであった。ダリューンが口から再び自然に短い聞き直しの言葉を発している間、隣にいるナルサスはもはや笑いを堪えるのに必死であった。

「どうかダリューンさまとの子を成したいと、申し出ておるのですが…私のパルス語に至らぬところがございましたでしょうか」

ついにはナルサスが大声を上げて笑い出す。隣で別の意味で肩を震わせていたダリューンは、さすがにようやく理解が及んだが、目の前の少女に告げる言葉を持たなかった。「御免!」と勢いよく言い放つと、ナルサスを勢い良く引っ張り、複雑に入り組む路地の中へと姿を眩ませた。

屋台で買った羊串を食べながら、ナルサスは先程の少女のことについてダリューンをからかっていた。ナルサスにとってこれ以上に面白い話題は今ないし、ダリューンにとってこれ以上に面白くない話は、今なかった。食べる口を動かしながら、冗談めいた口調でナルサスが言う。

「ダリューン、おぬしの武勇の轟くところは、もはやパルス国内や諸外国の将校にとどまらぬようだ。まさかあんな少女に求婚ならぬ求愛をされるとは、いやはや大将軍への昇格もそう遠くないと見える」
「好いた女に求愛どころか告白もできぬ男になぞ、何を言われても気にならぬ。お前の恋路には昇格の文字はあっても、少しも手を伸ばすことができぬと見えるな」
「できぬのではなく、せずにいるだけだ。あの者、絹の国から遥々来たと言っていたではないか。欲しいのはお前の子種のようだし、健気な心意気に免じて一晩くらい相手をしてやればどうなのだ」
「欲するのが俺のそれだというのがさすがに怪しすぎるだろう…それに、俺はあのような年端のいかぬ少女に手を出す趣味などない」
「いいえダリューンさま、私は既に殿方との婚姻を認められ、家長よりこの身に子を宿すことを命じられた身。かようなことをお気になさる必要はございませぬ」

一体どこからか、ダリューンとナルサスでも気付かぬほどに気配を消して現れた少女に二人は驚いた。にこりと微笑むその表情には息を切らすような様子もなく、先程と同じようにダリューンの眼前で三つ指をつこうとする。すかさずダリューンがそれを制止すると、少女は渋々立ったままの姿勢で話し始めた。

「先程は拙い言葉で困惑させてしまい、申し訳ございませんでした。改めてお話をさせていただきたく馳せ参じたのですが、よろしいでしょうか」
「いや、ミレイ殿と申したな。おぬしのパルス語に至らぬ点などござらんよ。ただこの男が驚いて逃げ出しただけのことだ」
「なんと。天下の万騎長さまと言えど、そのようなことがあらせられるのですね」
「逃げ出してなどいない。…話を聞こうではないか」

まんまとナルサスの口車に乗せられた、とダリューンは思いつつ、しかしそこで自分が逃げたということは認められない性格なのであった。

「先程申し上げた通り、私は絹の国よりやって参りました。我が家は代々より続く、武人の家系です。男として生を受ければ日々鍛錬に励み、武を極めるが真理。なれど女として生を受ければ、武芸を習得した上で、自らが強さを認める男性との間に子を成し、立派な武人として育て上げるのが役目でございます」

少女が話す中で出てきた家系の名前には、ダリューンとて聞き覚えがないわけではなかった。かの絹の国に訪れた際には何度も耳にしたことのある、先祖代々優れた武人を輩出しているという名家であった。

「私は祖父よりダリューンさまのことを聞き、赴いたのです」
「俺のことを?」
「はい。まだ幼い王太子のために戦場を駆け、身を挺して殿下…いえ、アルスラーン陛下をお守りし、一番の部下として支えたと聞いて、富も名声も身の保障もない御方をそれでもお守りするという確固たる意志を持った男性とは、どんな方かと思ったのです」

ダリューンもナルサスも既に手に持っているのは何も刺さっていない串だけになっていたが、目の前の少女の話を聞く、というからにはその場を離れるわけにもいかなかった。少女は祖父から聞いたというダリューンの姿を頼りに、パルスに遥々やってきたという。そうして話を聞いていくうちに、そこまでひたむきに自分を求めてきたという少女を追い返してしまうのはダリューンにとって酷に思われるようでもあった。

「…そういう訳で、どうか私と夜の手合わせをお願いしたいのです」
「それは断る」

しかし彼女は一通り話を終えると、結論そこに行き着くのである。ダリューンは先程こそ呆気にとられていたが、今度はぴしゃりと拒否の意思を伝えた。少女は既にパルス語が通じていることは分かっていたので、不満気に眉をひそめてみせた。

「何故でしょうか。ダリューンさまには伴侶はおらぬと聞き及んでおります。それとも心に決めた女性がおられるのですか」
「そういうわけではない。ただ、俺はおぬしのことを何も知らぬ。何も知らぬ相手とどうこうというのはおぬしにも、おぬしの家にも失礼にあたる行為だろうと思う」
「そうでしたか…。では、私を知っていただくために、ダリューンさまのお屋敷で働かせていただけませぬか」
「駄目だ。俺の留守は既に自由民の夫婦に任せているし、今以上は必要ないのだ」
「いいではないか。ダリューン」
「おい、ナルサス」

自分に代わって彼女に許可を与えてしまいそうな友人を見てダリューンは焦った。しかし、ナルサスはそこでダリューンに耳打ちするように次のようなことを言ってみせた。

「よく考えてみろ。そもそもおぬしはあの屋敷に殆ど帰らぬし、王都に置いておけばキシュワード殿やクバード殿、他にも屈強な戦士を見ることはあるだろう。放っておけば諦めて、別の男に求婚しにいくやもしれぬ」

パルスには優秀な武人などいくらでもいる、と付け加えたナルサスの言葉に、ダリューンは渋々納得した。この場で断ったとしても、確かに彼女は連日こうして自分のところに現れては、他のものが聞いたら大層な誤解を生みそうなことを、根気が続く限り申し出てきそうである。そして絹の国からその身ひとつでダリューンの元へ来たという熱意を考えれば、その根気はどうやら簡単には尽きそうにない。

「分かった。そうしよう」
「お許しをいただけるのですね!」

早速ダリューンさまのお屋敷に、と駆け出しそうになる彼女の首根っこをダリューンはすかさず捕らえた。自分の屋敷の場所を知らぬのに勢いだけで飛び出していくその姿を見て、ダリューンはとんだお転婆娘を引き取ってしまったかもしれぬ、と既に直前の選択を誤ったのではないかと感じていた。しかし引き返すこともできぬ彼は、周囲からすれば大袈裟に聞こえるほどに溜め息を吐くのであった。

End.