Lesson 3「彼は私の主です」

「この御方は俺の主だ」
「まあ!ギーヴさまは女神さまにチュウセイを誓うと言ってましたから女神さまですか?…でも、この人は男の人ですね?」

相変わらず過去の自分の言葉を文字通りを捉えているルチアに、ギーヴは苦笑した。比喩や暗喩だらけの表現を揶揄られている訳ではないのは分かっていたが、事情を知らぬアルスラーンからそれがどう見えるのかを彼なりに、多少は気にするのだ。傍らに立つ彼の主君はそんなギーヴの心情を察してか、ただただ優しい笑みを浮かべていた。

ギーヴはしばらくぶりにルチアの店に顔を出そうと、露天商の並ぶその通りに入った。その時に偶然にも街の様子を見に来ていたアルスラーンと出会ったのだ。護衛も付けずに街を歩く彼の姿を見て、どうやら黙って抜け出してきたな、と王太子府で頭を抱えるエラムとジャスワントを頭に浮かべた。
仕方なしにギーヴは珍しいもの好きな王子が満足するまで街を連れ回し、その後に共に王太子府へ戻るという風に彼の予定を書き換えた。そうして今に至る。
物見ついでにルチアの店には立ち寄ったが、そこで彼女に王太子アルスラーンの名を明かしてしまわぬのは、ルチアが丁寧な表現を使おうとしてパニックになるのを避けるためである。少女が慌てている様子を見るのも一興という考えがないわけではなかったが、お忍びで来ている彼の主君のためにはあまり騒ぎを起こさぬ方が懸命だと思ったのだ。

「ルチアと申したか。そなた、この店を一人でやっているのか?」
「そうです。ギーヴさまお手伝いしてくれて、お客さんたくさん来るようになりました?」
「そこは疑問にせんでいい、ルチアよ」
「ギーヴさまのご主人様とってもキレイですねー」

やや話を聞かない様子の少女だったが、アルスラーンはそれを無遠慮ではなく無邪気と捉えていた。
シンドゥラで生まれギランで生活するルチアからすると、アルスラーンの持つ銀糸の髪と白磁のような肌、そして雲一つない星空のような瞳は珍しかった。フードの隙間から溢れる銀白の房と、日差しを受けて透き通るように輝く蒼、という組み合わせを見てルチアはただ感嘆した表情を見せる。

「ワタシ、神様はアナタを作るとき、とびっきり、ン―?ゴキゲン?だったと思います。こんなにキレイな色たくさん使ったですからね」

その場に居合わせたギーヴに言わせれば、それは彼女にしか使えない殺し文句のようだった。すっかり口がうまくなったのか、それとも元々持っている彼女の純粋さからこそ出て来るものかと考えてみたが、やはり後者の方が優勢に思われる。ふと視線を動かせば、王太子であることを一時逃れたような柔らかな表情のアルスラーンが目に入った。

「あー、若旦那様よ。ルチアは実はパルス語にまだ不慣れでございますゆえ、何か言葉を教えてやってくださいませんか」
「言葉を?うーん、私はナルサスのように物事に詳しくないから、人に物を教えるなどと大層なことは…」
「使える言葉がなければ、この口達者な商人だらけのギランでルチアは飢え死にしてしまいますぞ」
「それは困るな。ではルチア、これは何か分かるか?」
「剣ですねー、ギーヴさま教えてくれました」

少女が困ると言われては、助けをせざるを得ない。そういうところがこの王子の甘いところで、しかしギーヴはその甘さが段々くせになっている自分がいることにも気付いていた。
彼の思惑など知らぬアルスラーンは、真面目な顔をしてとりあえず手当たり次第に目に映るものの名前をルチアに教えた。剣、宝石、老人、子供、海、船、空。行商人によって運ばれていくもの。漂ってくる香りから想像される花の名前。肌を掠める潮風の来る方向。ルチアは自分が知っているものがあれば喜んで答え、知らない名前はそのたびに小さな唇に音を乗せた。

「ルチア、あれは?」
「あれはワンワンと鳴きます」
「鳴き声はワンワンで合ってるな、名前は分かるかい?」
「ンー…ワンワンはワンワンではないのですか?」
「ワンワンと鳴くが名前は別なのだ。あれは犬というんだよ」
「イヌう」

ギーヴからすればなんだか邪気のない二人が動物の名を教えあっているだけの光景が、とことん微笑ましいやり取りに見えて仕方ない。エラムにはくだけた口調で話さぬアルスラーンも、ルチアくらいの少女になればまるで兄のような言葉遣いでやり取りができるのか、とその様子を値踏みするように眺める。

「イヌーは可愛いですね。しっぽを振って、ご主人様まちがえないです。悪いやつには噛みつきます」
「まるで黒衣の騎士殿のことを言っているようではありませんか、若旦那様」
「ダリューンに尻尾…あ。確かに黒い尻尾があったな。そう言われると確かに、忠義心の深い様子は似ているかもしれぬ」
「ルチア、若旦那様には黒くて大きな番犬がついていてな。そいつは若旦那様に危害を加えるものと見れば猛烈な勢いで襲ってくるのだ」
「ばん…?ワンワンと鳴くですか?」
「鳴き声は『殿下』だな」
「デンカデンカと鳴きますとはどういう…?怖いイヌーなのですね」

悪ふざけするギーヴの言葉にすらルチアは疑問を抱かず、言葉の組み合わせこそぎこちないもののかなり習得の進んだパルス語を遠慮なく使ってみるのだった。アルスラーンはギーヴの言葉に些か揶揄が混じっているのを困った顔で見つつも、やはり裏表のない少女の様子には微笑んでしまう。

「ところで、ギーヴはどうしてルチアと知り合いなのだ?」
「なかなかに腕のいい細工師でございますゆえ、少しばかり俺の夢へ協力してもらっているだけですよ」
「そうなのか。確かに、この店のものを見ればその腕が良いのは私にも分かる」
「ギーヴさまは、ワタシのパトロンなると言いました。あと、エ…オマエニホレタ?って言いましたから。優しいですよー」
「えっ、ぎ、ギーヴ…」

油の切れかかった金属が重たく動くような動きでアルスラーンはギーヴを見やった。彼が女性好きなことはもちろん知っているが、まさかこんなに幼い少女までもがその守備範囲に入るとは思わなかったらしい。ルチアの発言をすぐさま訂正せねばと思いつつ、ギーヴは今この場にいるのが彼の主君のみで全く幸運だったと心底感じていた。彼の脳裏には愉快な笑みを浮かべる軍師と騎士、そして軽蔑の視線を向ける少年と女神が瞬く間に浮かんだからだ。

「殿下!違いますぞ、これは。俺はルチアの店がうまくいくよう投資をしているだけで、惚れ込んだのは彼女の素晴らしい技術にございますゆえ…そう!殿下もご覧になったでしょう!」
「デンカデンカ」

必死に弁明する彼の言葉に先程覚えたばかりの単語が出て来るのが嬉しいのか、話の筋の分からぬルチアは文字通り子供のような笑みで覚えたばかりの言葉を繰り返した。

「そんなに慌てずともよいではないか。…純粋で可愛らしい………と私は思うぞ」
「勘違いをされては困りますな、俺は誓ってこのような少女になど―――」
「ギーヴさま、ルチアのこと嫌いということですか?」
「ああもう!」

ややこしい!と結局ギーヴはその場からアルスラーンを抱えて一目散に逃げ出した。いやこれは戦術的撤退だ、と彼は自分の心にとりあえず言い訳をし、脇に抱えた若旦那、もとい王太子アルスラーンには王太子府への帰り道で珍しい屋台の食べ物を与えることで一応の口封じとした。とはいえ、彼の主君はその心に悪い考えなどは持っていないのだが。

そして翌日には無邪気な少女の露店へまた赴くと、彼女が気に入りそうな色彩豊かな挿絵に簡単なパルス語の物語が添えられた書簡をひとつ、彼女への詫びの品として献上したのであった。ルチアはそれに大変機嫌を良くしたが、そもそも彼からの好き嫌いに関しては大して気にしていなかったと奔放に言い放つ。ギーヴはほっと肩を撫で下ろしたが、直後、自分のその安堵した姿に衝撃を受けずにはいられないのであった。

End.