Lesson 2「ご機嫌麗しゅう」

ギランの街を吹き抜ける港風が心地よい。キラキラと光を受けて輝く水面のように、色とりどりの宝飾品が並べられた屋台の前。そこには今日も、己をパルス有数の色男と謳うギーヴの姿があった。

「ギーヴさま、こんにちはでございます」
「ルチアよ。ございますはこんにちはには付けられんぞ。そいつらは仲が悪い」

不自然なパルス語を聞いて笑うギーヴに、ルチアは不思議そうな顔をした後にふむふむと頷いた。

「おはようはございますでいいけどですか。では、こんにちはは何と言いますか?」
「ご機嫌麗しゅう」
「ゴキゲンウルアシウ?」

何ともたどたどしく自分の言葉を繰り返す少女に、ギーヴは笑いながらも繰り返し言葉を聞かせた。彼女にパルス語を教え始めてから何日かが経ち、最初の頃に比べれば言葉に詰まることは随分減っていた。最もギーヴは人に何かを教えることが好きでも得意でもなかったので、彼の中の偏った語録が徐々に刷り込まれつつあるのだったが。

こういうとき、彼の脳裏には宮廷画家を志して猛進する軍師の姿が浮かんだ。きっとあの御仁であればルチアにパルス語を教えるなど訳もなく、それでいて普遍的な言葉を教えてやれるのだろうなと思う。それにシンドゥラといえば現地人のジャスワントがいる。パルス語をパルス語で教えるよりも、少女が扱える言葉で解説をしてやれる方が数倍学びが実りそうだとも感じた。

しかしギーヴは、自分がこの少女と関わっていることをわざわざ他の者に言ったりしなかった。彼の忠義は確かに王太子アルスラーンに注がれていたが、本質的には自由を求める男なのだ。手助けをしてくれなどと言うのも気が進まなかったし、何より昼間の時間を過ごすのに少女の店はちょうどよかった。ここには客がほとんど寄り付かないからだ。

「いつもありがとうございます。パルスの言葉、だいぶ覚えましたですよ」
「『覚えましたです』か、それは良きことだ」
「ギーヴさま、今日は私これからお店のもの作りますから。お店は閉じまして工房へ行きます」

彼は一瞬、耳を疑った。しかし確かに少女はこれから工房に行き店のものを作ると言った。店のものというのは、ギーヴの目の前にある宝飾品のことに違いないだろう。

「まさかとは思うが、おぬしが宝飾品を作っているのか?この店のもの全部?」
「そうですけど。何かヘンでございますか?」
「…なあルチアよ。俺はお前のことをこの間助けてやった。助けた礼をせねばと思う心があるはずだろう。いいやあるはずだそうに違いないああそうだな」

訳の分かっていないルチアに有無を言わさず丸め込むのは少々気が引けたが、そんなことよりも少女が本当にこんなに繊細で精巧な宝飾品を作れるものかという疑問と好奇心に突き動かされ、ギーヴは先日の礼は同行許可でいい、と強引に工房に付き添うことにした。

工房と言って案内されたそこは、簡素だが金属を溶かす釜や、細工をするための作業台が設けられた施設であった。商人の組合が運営している場所のようで、少女は契約人の名を受付にいる男に伝えると、慣れた足取りで作業台のうちの一つへ歩いて行く。建物内には熱気が充満していて、薄着のギーヴの肌には既にじっとりと汗が滲んでいたが、シンドゥラ生まれのルチアにとっては暑さと言えぬ程度のもののようだった。

汗一つ見せない少女の後を追い、ギーヴは細工に取り掛かった彼女の様子を眺めることにした。彼女はある程度の成形の終わった金の板を何の躊躇いもなく金槌で平たくしていく。それからへこみ台にあて、裏面から先端に球のついた道具で叩く。表面にも小さな鏨で細工を施すと、みるみるうちに金の板は立体的な花に変わっていった。
店にある商品が本当にルチアの手で作られていたというのを、ギーヴはその技術を目の当たりにすれば認めるしかなかった。少女の顔は真剣そのもので、片時も手元から目を離さず次々に見事な細工を作り上げていく。

「ふう、今日はここまでにしておきます」

彼女も気付けば額に玉のような汗を浮かべていた。作業を始めてからはや数時間は経過していたが、その間ギーヴはひたすらに糸のように細くした金を縒って形作る様子や、溜め息の出そうなほど小さい粒状の金を並べて模様を入れる様子を見ていた。単に意外性があるから見ていたのではなく、ルチアの持つ神がかり的な技術から目を逸らすのが勿体なく感じられたのであった。
額の汗を適当な布で拭うと、ルチアはようやく手元から目を離した。ギーヴと目が合った瞬間彼女はぽかんと口を空け、そういえば同行していたのだったと数秒後にようやく思いだしたような表情を見せる。

「ギーヴさま、ずっと見ていましたですか?」
「ルチア!お前本当に細工師だったのか。いや、あまりにも見事で驚いた!こんな神業のような技術が商売にならんとは、ギランの商人たちの目は節穴か―――」

そこまで考えてギーヴは何かを閃いた。珍しく少年のような純粋な輝きを含んだ彼の表情は、しかしすぐさま悪いことを企む大人の顔に変わり、その場でルチアに、出来上がった髪飾りにとある刻印を入れる作業を付け加えた。

翌日。ギーヴは朝早くからグラーゼの元を訪れ、彼と二言三言やり取りをしたかと思うとその足で街の鋳物屋に向かった。ルチアには昨日のうちに、とにかく俺が言うまでは店を閉じていていいから作品に集中しろ、と言い渡していた。少女はギーヴの言動に不思議さを覚えつつも、身を寄せるところもないギランで一等信頼を寄せた彼からの助言とあって、工房にこもってひたすら制作に没頭した。
そうして数日後には工房で作業に没頭するルチアの前に再び現れ、まだ仕上げの途中だという彼女の言葉も耳に入らぬような様子でその手を引いて屋台の前へと向かうのであった。

「ルチア、お前の店にこの看板を授けよう」
「看板はもうあるのですよ?」

彼女は既に店についている古い木の看板を指差した。ギーヴは首を横に振る。

「ここは元はお前の親の店だったであろうが、今はお前の店だ。店主が変わったのなら店の名が変わっても何らおかしくないであろう」
「そういうものでしょうか…?」
「パルスにはパルスのしきたりというものがある。今まで賑わいがなかったのはお前が古い名前のまま店を続けていたからかもしれぬなぁ」
「なんと!ワタシ、パルスのことよく知らないから、そんなことだったですか」

やはり純粋な少女に自分勝手なことを押し付けていくギーヴであったが、もはやそれを悪いと思う気持ちはなかった。とにかく今は目の前の少女の持っている技術を真っ当な商売へと昇華させるために、彼は突き進んでいるのだ。
彼は鋳物屋に依頼して作成した看板を取り出す。これまで店に飾られていた看板は、いつから使われているのか所々ささくれ立って文字も消えかけていた。古い看板をルチアに投げて渡すと、手際よく新たなものを取り付ける。そこにはギーヴがルチアの作品に必ず付けるようにと言っていた刻印と同じものが入っていた。

「ギーヴさま、これ」
「お前の店の印さ。いいかルチア。俺は今日からおぬしのパトロンになってやろう」
「ぱとろんは何ですか」
「女神が実在するならばお前の作った細工品を全身に身に纏っているのであろうなあ。俺は実在しない女神も好きだが、実在する女神はこの上なく好きだ。その彼女たちに相応しい宝飾品を生み出す者を―――」
「はい?」

難しい言葉だったゆえ聞き返されたということは頭では理解できるのだが、ギーヴは自分の表現に些か自信がなくなり、改めて言葉を易しくして説明をすることにした。

「つまりだ。俺はおぬしの技術に惚れた。だから商売が軌道に乗るまで金の面倒を見る。分かるか」
「ホレタ」
「そこだけ繰り返しているということは分かっておらぬようだな、おぬし」

すっかり肩を沈めて言うギーヴの姿を見て、少女は申し訳なさそうに微笑んだ。説明するのは諦めることにして、ギーヴはここ数日ルチアが作っていたという宝飾品の半分を強引に買い取った。その際、安すぎる値段も訂正してやり、店も多少掃除をして商品の並び替えまでしてやるという、彼にしては破格のサービス付きであった。いや、彼女の作った宝飾品を持っていけば自分も妓館でいい思いをできると知っているのだから、サービスというにはやはり現金なものかもしれなかったが。

そうして数日のうちにギーヴは彼の得意先である高級妓館に出入りし、ルチアの商品を妓女たちに見せ、いつになく気前よく渡した。王太子殿下直属の楽士が持ち歩いているという刻印の入った宝飾品は、瞬く間にギランの妓女たちの間で話題に上った。
閑古鳥の鳴いていた少女の屋台に色とりどりの夜の蝶たちが次々と訪れるようになるのは、少し後の出来事となる。少女は急に忙しくなった自分の店に喜びを覚えながらも、日毎ギーヴにもらった言葉を思い出していた。

「おぬしに…えーと、ホレタ…は何という意味だったのでしょう」

少女に多大な誤解を残していることに気付かぬ楽士は、客寄せをしたのはいいが昼間の居場所がなくなってしまったな、などと考えながら今宵も夢の旅に出かけていくのだった。

End.