Lesson 1「あなたの名前は?」

「お兄サン、おひとついかがですか?」

掛けられた声に思わず足を止めてしまったのは、久々に『自由の身』らしい時間を手に入れたからかもしれない。ギーヴは後にこの出来事を振り返ってそう思った。何故自分がそこで足を止めたのか、その時には理由が分からなかったが、思えばその少女を自分好みの女になりそうだと品定めしたのが始まりだった。

ギーヴには少女趣味はもちろんない。しかし、いずれ美しい花を咲かせ豊かな実をつけそうな苗木があればそこに注ぐ愛情くらいは持ち合わせていた。そうして苗木の近くに、既に実のついている者がいればそれが一番であるというのが、彼の矜持だ。

「これはこれは、可愛らしいお嬢さん。貴女にはお姉様などはおりませんかな」
「おね…?」
「失礼。家族は?」
「カゾク、いません。みんな海賊に殺されました。ワタシ、一人。えーと、シンドゥラからお店、しにきたですね」

拙い表現のパルス語で語られる真実は残酷だった。しかしギーヴはこのご時世に珍しい話でもないとそこに大した興味も感傷も持たず、ふと少女の屋台の商品に目を留める。彼女の店は装飾品を扱う店のようだったが、しばらく客の手に取られていないのか中には埃を被っている商品もあった。
ギーヴは、手近にあった髪飾りを一つ手に取った。彼はそこらの貴族や商人よりもよっぽど宝飾品の目利きには自信があったが、その彼が見ても感嘆の声を上げるほどに精密な細工の施された、金の髪飾りだ。
しかしふと金額を見れば、まさかこの値段でこんなに上等なものが売っているはずがない、という破格である。いいものを見つけて得した気になり、ギーヴは鉄壁の笑顔で言い放った。

「綺麗だ。一つもらおうか」

なるべく伝わりやすい表現を心がけ、少女に人差し指を立てて見せる。先程まで眉尻を下げて困り顔だった少女は、その仕草にパァッと顔を明るくし、褐色の肌によく映えるオアシスのような瞳を細めた。

「ありがとう、ございます!お兄サン、ワタシ、ご飯食べられますね。嬉しいです」
「それはよかった。貴女に女神のご加護があらんことを」

ギーヴは少女のような境遇の者を見つけても、同情に浸るのは好きではなかった。旅をしている間にもその日食べるものに困っている民などごまんと見てきたからだった。
すぐにその店を後にすると、彼はその夜もまた新たな妓館に赴き、そこで一夜の愛を語った女にそれを贈った。

しかし翌日も、ギーヴはその娘の店に向かった。当然、彼女のことが気になったとか哀れんでやろうという訳ではない。単純に昨日の髪飾りが彼に極上の夢を見させてくれたので、今宵出会うであろう女神への献上品を手に入れるためという己の欲望に忠実な訪問であった。

「お兄サン!」

ギーヴの姿が見えるやいなや、少女は彼を呼んだ後、興奮気味にシンドゥラ語で話しかけた。しかしギーヴにそれが伝わらないということはすぐに思い出されたようで、相変わらずの拙いパルス語で「昨日はありがとうございました」と言ってみせた。
慌てて顔を赤らめる様子に、ギーヴは思わず口角を上げた。置かれた境遇には似つかわしくない無邪気さは、嫌いなものではなかった。

「ご機嫌麗しゅう、美しい砂漠の国のお嬢さん。今日も何かいただきたいのだが、貴女のオススメの品はあるかな」
「おすすめ?」

その挨拶の意味は理解しかねたようで、彼女は屈託のない笑みを浮かべて言葉を繰り返しては小首を傾げた。異国の地で一人、そうやって生きてきたのだろう。

「そう。この店で一番いいものは何か、と言ったほうが良いだろうか」
「いいもの、あります。これ…シンドゥラでしか取れない宝石、今はもう戦争で壊れて、ほとんどないですよ」

少女がギーヴに勧めたのは、手に持った瞬間に光を取り込んで眩い煌めきを放つ透明な石だった。華美な装飾のない耳飾りに仕立てられているが、貴重な品だというそれは、確かにギーヴも初めて見るものである。細かく表面をカットされたその石をくるくると回し、彼はそこから溢れる光の美しさに見惚れた。

「どんな女性の瞳にも、アー、染まりますね。お兄さんにぴったりと思います」

しばらく眺めているので買うかどうかを悩んでいるのかと思ったのだろうか。少女は不慣れな接客の言葉を放ち、それは見事ギーヴの心を射止めた。もちろん、彼女があまりにも一生懸命に言った言葉だからという要素が、だが。

「はは、まさか俺が色男だというのが万国共通だとは光栄だ。気に入った。今日はこれと…そうだな、そっちの腕輪もいただこうか」
「お兄サン、ありがとうございました。また来てくださいね」
「今宵も良い夢が見られれば、また来るさ」

そうして彼は少女へ代金を渡すときに、こっそりと金貨を一枚混ぜた。これはやはり哀れみなどではない。貴重なものにそれ相応の対価を支払っただけだ、と誰に言い訳するでもなく頭の中でそう言って、静かにその店を去った。


ギーヴは、その後数日は彼女の店に立ち寄らなかった。それもこれも、彼がなけなしの忠誠心を一心に注ぎ込んでいる王太子殿下から「王太子府の警備をしてほしい」と依頼されてしまったからである。夜中そこを離れられないのでは、60カ国の美女と夢を見る旅は一時中断せざるを得なかったのだ。

「ギーヴ、ご苦労だった。おぬしも忙しいのに、すまなかったな」
「全くです殿下。お陰で俺は一夜に二つの国を股にかけねばならなくなりましたぞ」
「おいギーヴ、殿下におぬしの不埒な事情を話すのはやめぬか」

過保護な騎士殿だ、とギーヴはそれに悪びれた様子も見せず、一礼をしてアルスラーンの前を去った。太陽は高く昇っているが、彼の活動時間にはまだまだ遠い。
せっかくだしまた献上品を見に行くか、と商店の建ち並ぶ通りに足を踏み入れて、何とはなしにそこに並ぶ宝飾品を眺める。しかし目に留まるどれもがありきたりで、陳腐なものに見えてしまう。やはりあのシンドゥラの少女の店に行くべきか、と踵を返すと、彼女の店のある通りから、何やら罵声のようなものと、少女の叫び声が聞こえてくる。

「ワタシ、泥棒してません!」
「嘘を吐け、大して売れもしない店に、なんで金貨が置いてあるんだ!」

男の言葉を全て理解したのかは分からないが、金貨を指さして怒鳴る男の姿を見れば彼女にもその意図は伝わっているようだった。

「それは…この間来たお客サン、買ってくれたから」
「お前の店にはそんな高価なものはないじゃないか!盗みをやったんだろう!シンドゥラの小娘が!」

店を取り囲む屈強な男たちのうちの一人が、少女に拳を向けた。一連の会話を聞いてギーヴは内心しまったなと思いつつ、自分が無関係ではない上に目の前で少女が痛い思いをするのを見過ごすのは彼の言うところの正義に反した。

「おっと、大の男が集まって、いたいけな少女に何をなさっているのやら」

少女の目の前で男の拳は止まる。横からその手首を掴んだギーヴの腕は、飄々とした彼の雰囲気とは裏腹に、そのまま骨でも折ってやろうかという気迫に満ちていた。
荒っぽいやり方ではあったが数人の男に少しばかり痛い目を見てもらい、ギーヴは見事少女の店の前から男たちを退けた。

「お、お兄サン。強いのですね。…ビックリしました」
「ふむ…」
「どうかしましたですか?」

ギーヴは思った。少女に金貨を渡したのは確かに自分だが、ここに一人で店を構える限り、原因は違っても今日のようなことを繰り返すだろう。自分が男たちをのしたところで根本治療にはならない。
その日は結局何も買わず、彼は街の古本市に足を向けた。まさか自分が本など好んで買うことになるとは、と溜め息をつきつつ、少女に何かしてやれることというのがそれ以外に思いつかなかったのだ。そうして翌日は太陽が高く上る前に再び店を訪れた。手に持っていた本を、少女に渡してやる。

「シンドゥラ語の本、です」
「たまたま海賊たちが奪ったものの中にあってな。元々それはシンドゥラのものゆえ、貴女に渡せば元に戻ったことになるだろう」
「お兄サン、これパルス語の…んー、教える本?じゃないですか?」
「さて…よく中身を見ていなかったものでな。読んでみてはいかがでしょうか、お嬢さん」
「エー、貴方の名前は何ですか?」

少女はシンドゥラの民がパルス語を学ぶための教本に書いてある台詞をそのまま読み上げた。

「ギーヴと申します。貴女のお名前は?」
「私は、ルチアと言います。よろしくお願いします」

ぺこりとお辞儀をしてみせる少女の名前を、ギーヴは口に出して呼んでみた。そうしてその日から、ギーヴとルチアとの奇妙なパルス語の特訓が始まるのであった。